1. ギターの撥弦法について思うこと
        

  声楽には呼吸法、発声法、共鳴法などの発声法の基本があるように、ギターにも発弦法があると思います。
 ギターは弦を指ではじいて音を出しますが、私は「はじく」という表現は、あまり使いたくないですね。
 言うなら「弦を鳴らす、響かせる、さらには、歌わせる」と言いたいところです。
   ここでは、アポヤンドやアルアイレなどについては触れません。 
それらは音楽への思い入れによる、ひとつの発弦の結果だと思うので。
 ともかく、声で歌を表現するように、ギターでは指で、イヤ、体全体で音楽を表現するという、
音楽の基本上の発弦のための検証です。
 アマチュアのみなさんの中には、ギターを練習して弾くことが、
  まるで編み物や刺繍をやるような手仕事のように
になっていないでしょうか?
 (イヤ、編み物、刺繍にも作る人の「思い入れ」があるとは思いますが)
 体全体で弾くといっても、なにもオーバーなアクションなどの演出が必要というわけではありません。
 でも
演奏者がどんな音楽のの表現をしようとしているのか
見ていて感じられる自然な演奏の雰囲気は出せないと。。。
 だって、その音楽への思い入れがあって、それを表現伝達しようとしているのだから、
  その心の現れを隠したわけはないはずはないでしょうから。
 だから、それをさらけ出して、かつ想いどおりコントロールして、指で音のイメージを描くことの訓練、
  そのための表現練習が必要だと思うのです。
 ただし、その音の描き方の基本となるギター発弦法を考えないと、
人に伝えるという音楽表現の壁
は乗り越えられないと思うのです。

     さて、ギター発弦法について考える前に、音楽として大事な、
発音タイミング(つまり、リズムをとらえる
についてですが、
     毎年、ウイーンのニューイヤーコンサートでは、ラデツキー行進曲を、
観客の手拍子でオーケストラが演奏するのを見かけます。
     ところで、あなたは、手拍子をどのように打つでしょうか。 
あるいは、カラオケルームで友人の歌を盛り上げるときなんかも。
     手の平が磁石で吸い付けられるように、ピッタリ止まる打ち方でしょうか?
     あるいは、手の平がブチ当たった瞬間、作用反作用で、はじかれるような打ち方でしょうか?
     日本の伝統的芸能では、ふりかぶってクワで土を掘るように、
     何かに向かって動作が停止(収束)するようなアクションの傾向があります。
     しかも、まるで無常観に至るような、最終的に自意識とエネルギーを開放して、
流れに身をまかせるような気配さえあります。
     日本のクラシック・ギタリストに見られる「ギター演歌節」の原因も、このあたりにあるように私には思えます。
     西洋音楽の場合は、継続するリズムを最後まで発散させるために、たゆまず湧き上がる活力があります。
     いわゆる音楽の流れを抑制するような場面で、
テヌートや、テンポを落としても、ディムニエンドしても緊張感は増します


 オーケストラの指揮者の拍子(いや必要なタイミングでの音質量の要求)を指示する、
タクトの動きが如実にそれを見せてくれます。
 たとえば3拍子は、正三角形の3辺を、1,2,3と、なぞり、そのつど三角形の角にぶつかって止まるような
拍子の取り方ではありません。
  雨だれが水面に落ちて、はね上がる様が音の立ち上がり(指揮法ではシャクイという)です。
  突き刺さるような動きではなく、舞い上がるための動作です。
 ギターの発弦でも、タイミングをとらえた指の動きは、はね上がる指揮棒とおなじと言えるのではないでしょうか?
 この違いを、指揮のまねごとをして実感してみるなら、立ち上がりの良い発弦法や、
生きたリズムの表現は分かったようなものです。
 ひとりで音楽をやっていると、かならず自分に都合の良いリズムの取り方になっているものですね。
 独奏だけをしている人が、重奏をやってみると、「他人と共に共通のリズムが捕らえられない」という、
予想外の難題にぶつかります。
 自分の弾きやすいリズムで、フレーズを弾く習慣があると、合奏で相手との息が合わない事態が確実に起こります。
 合奏では、共通に流れるテンポ、リズムがあるので、独奏の時とは違って、
  その外部の自意識の外の正規の、その音楽のリズムに合わせなければなりません。
 ギターの音は、弾いたあとすぐに衰退するので、合奏のリズムが合わないのは極端に目立ちます
 ギター音(単音)の波形(クリックしてみてください)

     
とりわけギター合奏では、弦楽器の合奏以上に、
メンバーの発弦のタイミングが完全一致がなければ音楽は成り立ちません
なぜ、合奏をしたとき、なかなかリズムの頭が合わないか? もちろん個人的なリズム感の問題ですけれど。
     よく見かけるギター練習者のリズムの捕らえ方は、リズムの頭に向かって指を動かしいるのを見受けます。
     それでは遅すぎますよね。 
時を失して遅れて鳴らされる音は、ひつつのハーモニーに不快な重たさを与えてしまいます。
     「流しソウメン」
は、ソウメンを狙ってハシを動かすと失敗の確率が高く、水しぶきを立てるだけかも。
     水しぶきもあまり立てず、確実にソウメンを手に入れるにはどうするかを考えることが、
ギター発弦法にも通じると思います。
     音楽では、拍子、リズムの頭ではすでに音が舞い上がっていなければダメです。
     そのためにも、弦に指を置いてから弾く習慣の初心者は、そのネチッこい発弦法を早く卒業したいものです。
     指が弦に触れたところから始動するのではなく、廻る皿回しの皿に、指先で加速を付けるよな気持ちで。
動作のはじめの研ぎすまされた柔軟な緊張感、
時の流れと一体化するタイミングの予測、ムダの無いしなやかな動き、
そして、その後の緊張ある脱力と、次への準備。 
まあ、結局これがギター発弦法の極意ということになるでしょうか。

 それと、発弦法で重要なことは、弦に対する思いやりです。弦には充分鳴ってもらわなければなりません。
 弦に立ち向かって、バチのように弾いては、弦に「私は弓のツルじゃないよ」って言われそうです。
 気持ちのエネルギーとそれを実現する指の動きを充分に楽音(音色)に変える、これも発弦法そのものです。
 コンパクトな動き、想像以上のアタック・スピード、ジャストミートの快感、その後の動作処理、
  合わせて、思い入れを実現したいという祈り
 特に、音楽の変化ある継続性のために、最後は次の音の準備をしていなければなりません。
その音の余韻を耳で追いながら。
 ひとつ弾いて気持ちや動作が終わるような成り行きまかせでは、
例の無常観クラシック音楽としては無意味な間)につながります。

      弦への思いやりとしては、びっくりさせず(つまり、正しいタイミング)で、
弦をすばやく揺りおこし、赤子を置くようにやさしく離れ、弦を弾く間は、
あたかも弦の断面を見た時、弦を指の運動方向に回転させるような、なめらかな所作が必要でしょう。
      ピアノ・フォルテのデュナーミックの点で言うと、よくピアノの音を、
力を抜いて、ゆっくりと弾くと思っている人がいますが、
ピアノは、強く小さく、時に速く弾くべき
ことがよくあります。
      つまり、ピアノはずっと遠くで鳴っているフォルテの場合もあるわけです。
      ギターのフォルテッシモの限度は知れています。
ピアノをいかに多様に美しく歌うか
が音楽表現のすべてかも知れません。

 さて、もうひとつのギター発弦法における、歌らしく弾くための要素は弾いた後の消音です。
 ギターの音はすぐに衰退するので、弾いてしまえばそのままにして、消音に無頓着な人が多いですね。
  (和音が変わる場合の消音という意味でなく)
 ここでいう消音とは、音符の長さどおりに切るとかではなく、
  抑揚ある
歌を、生きたフレーズとして表現するための積極的な消音です。
 合奏をして気づくと、かなり独奏のできる人でも、単音のメロディーを、 ピアノやヴァイオリンを弾く人のように、
 歌としてギターで歌えない
人が多いようです。「棒弾き」というか、、、
 あるいは、音の立ち上がりで、強弱やヴィヴラートや音色の変化はあっても、
  音の後処理に気配りのない味気ない弾き方だったりもします。
 もし、弦楽器や管楽器を練習すれば、この音の後処理が大きな音楽表現の練習課題だと気づくはずです。
  弾いた音をどうしようかと。
 つまり、気持ちのこもった歌はフレーズの連続であって、
そのフレーズ内の音は、抑揚をもって、リズムやアクセントの要素によって、
 大きくふくらませたり、 短く切ったりします。 
  さらにフレーズごとに、おはなしを進めるように、抑揚(メリハリ)をつけて歌われるはずです。
 ピアノという楽器も、ギターと同じように、音が自然に衰退しますが、ピアニストは、
その辺に、ものすごく神経を研ぎ澄ましていますね。
 あの音楽表現には不自由で、音の衰退の早いチェンバロでも、
奏者は鍵盤へのアタックと消音タイミングに命をかけていますからね。
 だから、その音の切り方(もしくはつなぎ方)には、音楽表現のセンスが現れるところでもあります。
 私は「音を切る」「音を消す」は、演奏表現上、言葉を使い分けたいと思います。
 「音を切る」とは、あたかも弦を音を出さずにペンチで切るような。
そして「音を消す」とは、弦の振動を素早く衰退させる、という区別です。

     モーツァルトの音楽では、彼の流れるフレーズは、レッジエーロノン・レガートの弾むような奏法で、
軽いアクセントをともなって演奏されてこそ、モーツアルトの音楽の魅力が伝わってきます。 
     もっとも、彼の時代のピアノの音は、今よりも軽き、濃密でなく、衰退もいちじるしく早いものです。
     私たちが聞く音楽は、むしろ演奏者が消音した後の楽器やホールの残響が魅力なのかも知れません。
     楽器がいかであれ、それは軽ろやかで巧妙で、繊細な個々の消音の操作によって実現されます。
     たとえば、あなたが童謡のメロディーを単旋律でギターで弾く時、順次、
音を出してゆくだけの棒弾きになっていないでしょうか?
     フレージングとその構成音は、息使いと共に言葉で語るように
     その個々の歌としての適切な音の長さ(音価)で歌いたいものです。
     実際に書かれた音符の長さにとらわれず、継続的で変化のある呼吸のような躍動感を表現しなくては。
     つまり、フレーズの中で、適度なスタッカートを交えたり、強拍と弱拍では呼吸感を表します。 
     まさに、シング・ライク・トーキングです。

 そこで必要なのが、消音のテクニックです。 流れにメリハリを付ける積極的な消音です。
 振動している弦を指で、その振動を鎮めるわけですが、ノイズなしに素早く消す必要があります。
 右指を触れて消すということもしますが、押さえている左指の力を緩めることもひとつのテクニックです。
 それは振動の根元の固定を開放することがいちばん目的にかないます。
 さて、右手の消音についてですが、動作そのものはテクニックというほどのものではないでしょう。
要は指の戻しの早さが前提です。
 問題は、ひとつの音符の長さ(音価)の中で、どんな消音操作をするかです。 
   とにかくきる限り素早く消音できるゆとりが必要です。
 やはり、ここにも演奏の質が関係してきます。絶妙な消音タイミングは音楽性のひとつの現れです。
 ブチ切れるような消音は、メロディーラインの中で、トゲトゲしく聞く人の耳を不快にさせます。

     また、初心者にありがちなのは、スタッカートで消音したことで、
     その音符の元の長さが伸びてしまい、逆効果になることがあります。
     たとえば、アレグロで、8分音符をスタッカートたとき、8分音符の60%で消音を始め、
次の音の立上がりまでに、前の音の消音のために50%使ってしまっては、
     次の音の立ち上がりが10%遅れてしまいます。
     では、どうすればよいかですが、しっかり出した音を一瞬のうちに、可能な限り、ノイズなく、
     きれいに消音する、ただ指の訓練あるのみ
     とにかく、音楽では、弾くも消すも、研ぎ澄まされた神経で、タイミングを捉え、
     サーフィンのように音楽の生きた波に乗ることでしょう。
     音楽での消音は、いわゆるメロディーにメリハリを付けて、聞く人を楽しませる歌い方のひとつの演出です。
     アクセントのある音の前に、絶妙の無音のタイミングを作ることで、
次のアクセントが初めて効果を発揮
します。
     それらは楽譜には書かれていません。楽譜は設計図ではないので、
その寸法とおり再現するだけでは不十分です。
     たとえば椅子の設計図で、それを作る時、正確な寸法で作るとともに、
座りごこちのよいものを作ろうという気持ちが必要でしょう。
     しかも設計図には、完成品の光と影や、そのものが持つ手触りなど書かれていないから
     事前に出来具合のイメージを描くことも大事です。
     さらにたとえれば、書道での筆さばき、それによって作られる紙の上の空間のバランスの妙であり、
     一筆のさばきは発弦法そのものだし、
     消音は1画の筆の最終処理(留め、払い、跳ね)での緊張感にも通じるでしょう。
     これらのテーマは、発展的に音の連続処理としての「アーティキュレーション」で考察したいと思います。

 右指については、爪の調整、指の当たる深さ、角度、方向など、
様々な表現の場で自分にあった物理的条件を工夫しなければなりませんが、
 肩、ひじ、手首、手の甲、指の関節という流れで、思い入れがスムーズに流動し
しなやかなハガネのような指先の弾力で、思っている以上の素早さで
 流れ来るリズム(テンポ、拍子)を一瞬にすくい取る「流しソウメンの真剣勝負」の連続です。
 そして、次の音に対して、どう後処理するか(つなげるか、消すか)までの、
 
思い入れの表現コントロール
が発弦法の課題だと思います。

おっと、もうひとつ発弦に関係する重要な音楽の要素について考察するのを忘れていました。
それは音色です。音色は思い入れによって発弦されたギターの響き。
さまざまな思い入れの表現ためには、弦に対する発弦の方法もさまざまでしょう。
ひとつの音符でも、
舞い上がるような軽やかな音。胸に響くような説得力のある音。穏やかに地を漂うような音。
乾いて響く音。丸い柔らかな音。適度なノイズを持ったアクセントのある音。
息を飲む込むようなか弱い音。ため息のようにやるせない音。
胸に突き刺さるような濃厚な音。はるかかなたで鳴っているような憧憬の音。
とにかく、いろいろと楽音には表現の可能性があります。
造語ですが、私はこれらを音質量と言っています。
つまり、いろんな要素、音に与える重さ軽さ、音圧と、
生きた音としての長さ短さなどのさまざまなクオリティがあるという意味です。
特に遠達性のある音は、単に指の力だけでは得られない、ギターを共鳴させる音圧という要素が大事です。

音符の長さのコントロールについて言えば、フレーズ表現の中で、
聞いていて物理的なテンポが変化したことに気づかせないで、心のテンポ感では自然に受け入れられるような。
いわば、音楽の相対性理論とでもいうような、音楽の「感性の秩序」があるように思います。
音質量しだいでは、流れる時間(テンポ)も一定ではなく、影響されて美しく変動するという意味で。
単に、弾き方で時間的な操作をするだけでは、その目的の音質量が伴っていないと陳腐なものとなります。
いわゆる「間延び」「イライラ感」「だるさ」「興ざめ」を与えてしまいます。
ひとりで練習する時も、あらかじめ、その音楽に感じた、音楽の筋書きに従って、自分を指揮して、思い入れを表現し、
そして、5メートル前の架空の聴衆に伝えようというエモーションで、求める音質量を響かせるために、
個々の音符について、発弦法を工夫して、音作り、フレーズ作りをするようにしたいものです。
その習得の方法は、、、祈り(願い)から始めるしかないですね。

 



          談話室 1.

私(1945年生)は、自分に音楽的才能はあるとは思いませんし、またそのような教育も受けませんでした。
ただ中学生のころから広く音楽に関心を持ち、クラシックギターを手にして、一人でやりはじめました。
大学のギタークラブで、先輩に影響を受け、それなりにクラシック音楽の世界に徐々にハマっていきました。
なぜが、ギター教室に行きたいとは思わす、結局ずっと一人で工夫して、
アウトサイダーでギターをやってきました。
御多分にもれず当時は、現役のセゴヴィア、ブリーム、イエペスなどがレコード上の先生でした。
仕事としてもレコード店に長く居つき、いろんな音楽を聴き、
業務上は最終的には業界の販売管理システムの仕事でした。
    仕事がきつくなにつれ、やがてほとんどギターを触ることはなくなりましたが、音楽はいつもそばにありました。
やがて、数年まえから、このホームページをきっかけに、
結局こだわりのクラシックギターについて何か残したいと思って、
またギターを手にするようになったわけです。腱鞘炎もやっちゃいましたが。
再開のころ、所蔵の昔弾いたクラシックギターの楽譜には、どうも手が伸びず、むしろ、
いろいろ聞いてきたクラシック音楽を
ギターで弾きたいと思い、編曲をはじめました。もう2年ほどで100曲以上になったようです。
そしてそれらを自分で弾いてみると、テクニックの及ばないことも大きいですが、
プロに教わった経験もないこともあり、
アマとプロの音楽表現の一線の大きさを感じ、再びギターについて考え始め、
それをまとめてみようとしています。
まあ、私的なプロジェクトにすぎませんが、ご指導いただければ幸いです。

余談室 1.

ギタリストにとって爪の手入れと保全はやっかいなことですが、爪の仕上げの最終兵器をご存知ですか?
最近はガラス製のヤスリが人気のようですが、さらにその後の仕上げには、
コンビニやスーパーの感熱式で印字されたレシートの表面が最高ですね。
あの紙はキメの細かいヤスリ状になっていて、それで爪の先を研ぐと、紙には黒い線がつき、
爪はピカピカ・ツルツルになり、テキメンに音質が向上します。

ではまた。。。(2004.1.18)

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