3.  音楽の練習はフレージングから


  音楽は歌であります。(今さら言うまでもないですね。。。)
歌は言葉にメロディをつけて歌うものですが、
歌のない音楽も、言葉を生み出した感情とその想い、それと同じように、
楽音でそれを表現するものなので、起源は同じです。
だから楽器演奏の目的は、その楽器の特徴を生かして、その音色で表情豊かに歌うことなんですね。
ところで、言葉というものは、文字による単語からできていて、
単語にはシラブル(音節)があり、文節がありアクセントがあります。
そして単語は助詞などでつながれて語句すなわち、フレーズ(楽句)を作り、
さらに文章となり、まとまった段落を作ります。
その一連の文章の流れには、情緒的な山や谷、言葉の意味やイメージによる
表現の抑揚・起伏が文脈の裏側にあるはずです。
動機(モチーフ)という言葉もよく使われますが、これは平面的なフレージング(フレーズとして分割)に加えて、
作曲者の意図的情念の要素の深さも含めた、主題(テーマ)と同じように、音楽の主要な構成要素といえるでしょう。

音楽(楽譜)を見るとき、
文章を読むように、音符の流れと、そのフィーリングをイメージして、自分の中で再現するように見ているでしょうか。
もちろん、そのために、、優れた演奏を聴きながら譜面を追ってイメージを結びつけてもいいのですが。
そうするなら、楽譜上の拍子も、小節線も、個々の音符も、それらの存在は遠のいて、
ただフレーズの立体的でドラマチックな運びと、

その個々のフレーズの音の綾と、それに伴うリズムとの抑揚だけを感じるはずです。
作曲家が音楽を作るとき、作曲家の心に、何拍子かの4分や8分の一連の音符が浮かんだのではなく、
触発された心に、熱い想いのメロディーや、色彩のあるハーモニーや、不随意筋の震えのようなリズムが沸いてきて、
それを記録するために、他にすべもなく、単純な記号としての楽譜を残したのです。そして、
その楽譜をもとに、自分の感性で、楽器を用いて、音楽として作曲家の想いを再現するのが演奏なんですね。

だから、まるで、「はじめに楽譜ありき」のように、拍子や小節や音符の長さに、いつまでも、とらわれ続けていては、
音楽としての情感が生まれて来ず、演奏も味気なく単調で、聞いていてストレスを感じる演奏になるでしょう。
確かに、リズムが掴めないとか、メロディがよくわからないとか、音符の長さの関係がわからない初期段階では、
拍子を取りながら、音符を追ってみることは必要でしょうが。それは音楽以前のこと。
ただ、小節を単位として、ものさしで計るようでは、ほとんどの場合、フレーズが掴めないことの方が多いものです。
情緒的な音楽ほど、小節の始まりと、フレーズの始まり、終わりは一致しません。
文章には句読点がありますが、譜面にはそれがないので、フレーズの区切りを見極めることが練習のはじまりです。
そして、そのフレーズの単位で、生きた音楽にする練習を積み重ねてゆくのです。
両方の指の、歌うようなスムーズな動きの訓練をしながら。その前には、表現したいという意識があってですが。

そして全体を体得すれば、各フレーズをどのようにつないでゆくか、試行することが音楽の仕上げの練習です。
このとき、個々のフレーズ表現は、全体の流れから、バランスが補正されたドラマチックな抑揚を持つでしょう。
いや、そうあるべきです。劇的なバランスは全体像から見て、シーンの表現の演出をしなければなりません。
つまり、聞く人に、想いが伝わる話し方とは、、、を考えるのと同じなので、聞く立場から自分の表現を検証します。
音楽を聞くことは、
作曲者の楽譜、それを再現する演奏者、そしてそれを聞いて自分の中にイメージをはぐくむ
もので、
よく言われるように、俳優の迫真の演技と、その演技を生んだ原作者のテーマに共感することと同じです。
結局、聞き手が最終的に芸術の受動的創造者なので、その素材を提供しなければなりません。
この演技力、つまり表現の課題については、次回の「アーティキュレーション」で触れたいと思いますが、
とにもかくにも、譜面から、まず、その音楽のフレーズと、そのフレージング(組み立て)を認識することが大事です。
とにかく、譜面どおり音を出すことが音楽の練習の基本だと、いつまでも思わないほうがよいでしょう。
音楽の主な練習は、
そのフレーズを構成する音群を、どのように表現するか(これがアーティキュレーション)ですから。

私の編曲楽譜には、あえてフレージング・マークを書いています。
それは、元にした原曲楽譜にある弧線マークと異なることが多々あります。
原譜のに記された弧線マークは、たいがい作曲家・編曲者によるものではなく、編集者の手によるものですが、
何よりも、このマーキングの意味は、文章としてのフレージングではなく、
音楽表現(アーティキュレーション)の部分的な指示であることのほうが一般的です。
つまり、この音符の間はレガートに弾け、とか、あるいは一連のボウイング(弓使い)の指示だったり。
ちなみに、ボウイング記号については、たとえばバッハの無伴奏チェロ組曲第1番プレリュードなんかで、
4つの版を見比べても、編集者(演奏家)によって、まったくボウイングが違うんですね。 
そのことは、どれがベストか、ということではないんですね。
私の場合のギター編曲では、冒頭4小節は三声と捕らえています。(二つ目の音が中声部)
とにかく楽譜では、フレージングのための記号などは、書かなくてもわかるだろう、のスタンスです。
そう、無くても、わからなければならないんですね。

バロック音楽のような、16分音符が続く、さざ波のような音形の音楽にも、フレーズは当然あります。
しかも、それは拍子や小節とは関係なく、次々とフレーズのリレーが存在します。
フーガなどの対位法では、それらが輻湊(ふくそう)して、高度なテレビゲームのようでもあります。
また、テーマの一部が類似的な発展の形で繰り返されることもあり、フレージングの掌握はなお重要です。
さらに、繰り返し現れる音形が言葉のように「韻」を踏んでいることもあり、おもしろさも倍増します。
余談ですが、最近のシンガーソングライター 「一青 窈 (ひとと よう)」 、の書き言葉の句読点、は 独特ですね。
それに、純日本的な趣の言葉や、韻を踏んでたりして。。。 
韻にこだわるのは、彼女には漢詩の血が流れているからか。
ただ、モーニング娘(ツンク詞)や、ラッパーの韻はコッケイだったりしますが。
それでも、まだ韻を踏むことの趣向が健在なことは、年寄りには、なんかうれしいですね。

さて、フレーズの見分け方ですが、
その練習法として、てっとり早いのは、楽譜を見ながらCDを聞いて、マーキングしてゆくことでしょう。
良い演奏では、あまりにも自然に表現されているので、普段は気にしないものですが、
それを注意深く意識して聞きましょう。そうすれば、もっと大きな収穫として、
フレージングと密接な関係にある、そのアーティキュレーションが、人それぞれにあることにも気づくでしょう。
軽やかで弾むようなフレージングのアーティキュレーションの演奏を聞くとき、
それが絶妙な消音やアクセントでコントロールされながら演奏されている技術面には、
普段聞くときは気づかないものです。 それが、あまりにも自然で心地よいためでしょう。

しかし、楽譜を追いながらフレージングしようとして戸惑うのは、おおよその音楽の区切りはわかるけれど、
どこまでをグループ化してフレーズとすればよいかではないでしょうか。
この数小節なのか、もっと細分化した短い一連の音符群なのか。
「ふと、見上げると、騒音は遠のき、冬空に、綿毛のような雲が、街路樹の枯れ枝を、暖かく、包んでいるようだ。」
ちょっと読点が多いですね。あなたならどのように整理しますか?
ところで、よく句読点といいますが、「。」のほうが句点というのですね。
上の7つの読点を表現する(間を入れて語りかける)には、その言葉のイントネーションによって、
それぞれに違った残響のような時間的、質量的要素
を感じませんか?
これらを同じような間で話すと、まるでロボット言葉になりますね。
よって、人それぞれに、強調したいイメージによって、異なったフレージングでもいいのですが、
どうしても、十分に間を取らないと、スンナリ耳に入らない読点があると思います。
「ふと見上げると、騒音は遠のき、冬空に綿毛のような雲が、街路樹の枯れ枝を暖かく包んでいるようだ。」
最小公倍的に、語るために、フレージングするならば基本的には、こんなものでしょうか。
その表現法については次回にまわすとして、
語るフレーズを聞く人に、イメージを創造しやすいように分割する
ことですね。
ところが、最初に述べた、
単語、シラブル(音節)、文節(意味の単位)、語句(言葉のまとまり)などの階層的な要素認識が、
無意識のうちにあるので、はじめてフレージングを試みたときの迷いになったのだと思います。
それと、休符があったからといって、いつもそこでフレーズが切れるというものでもありません。
「そうか、、、そうだったのか」
「そうか」の後の空白の間(休符)は、通常はこのセリフの区切りではないように思います。
もちろん、場面で異なるでしょうが。
たとえば、彼女が自分を愛してくれているとわかったときと、愛していないとわかったときでは、、、

また、音楽では、言葉にはない、フレーズの最後の音が、次のフレーズの最初の音のようなケースもあり、
実際には表現のむつかしいところでもあります。
それと、主旋律以外の音楽の流れの中にもフレーズがあることに注意しましょう。
ちょうど、セリフの掛け合い、対話、語らい、口論、ツッコミとボケのように。
バロック音楽なら当たり前ですが、構成力のある作曲家は、そこまで工夫して音楽的充実を図っているものです。
主旋律のフレーズの繋ぎの部分だけでなく、あたかも宇宙の法則のような暗示的な低音の流れがあったりして、
それを見つけるのは楽しいものです。
また、楽譜では、8分音符より短い音符には、旗の部分が連結された連桁として、
拍子やリズムをわかりやすくする習慣がありますが、
フレーズはその途中で分割されることも、よくあります。楽譜によっては、あえて分離してくれているのもありますが。
たとえば、16分音符が4つが連桁で書かれていて、その1個目の音が前のフレーズの終わりで、
2個目から次のフレーズのはじまりである場合など。

今、あなたが練習している曲や、レパートリーとなっている曲の楽譜を、もう一度見直して、
フレージングに注目してみると、音楽の構造がもっとよくわかって、表現のための発想が見えてくると思います。
そして、あえて、そのフレージングにセリフを当てはめてみると、もっと具体的になるでしょう。
たとえば、ギター教本によくある、初心者のための「パガニーニのソナチネ」ですが、以前下記のような文章を
フレーズの流れに沿って作って、友人に提供したことがあります。
文章のフレーズ番号は、ご自分で楽譜から探してマーキングしてみてください。(弱起の次が第1小節です)

@ 「こんにちわ。私は××と申します。どうぞよろしく。。。」(導入部)
A 「私は生駒市から来ました。」「そう、奈良県の西の端です。」
(2小節後半〜)
B 「生駒市、知らない?」
(6小節後半)
C 「それじゃあ、生駒の場所をおはなししましょう。。。」「生駒市は、」
(7小節後半〜)
D 「ほら、あの山の向こうの、」「そう、あそこに見える山の、」(10小節後半〜)
E 「山を越えたふもとで、」「私の大好きな、とっても良いところです。」
(14小節後半〜)
F 「さーて、今日おはなししたいことはですねえ、、、」
(後半部分、22小節〜)
G 「心が疲れたとき、」「私は山歩きに出かけるんです。」「そう、山を歩けば滅入った気分もリフレッシュします。」
(25小節後半〜)
H 「でもね、山では崖をよじ登ったりして大変なこともあるんですよ。」
(33小節後半〜)
I 「それでも、草花を見て安らいだり、」「木々と空をみて爽快になったり、」「ずっと遠くの山を見て感動したり、」
(37小節〜)
J 「そんな体験を思うだけで、」「山歩きは楽しくなり、」「また行きたくなります。」
(43小節〜)
K 「そうです。山歩きは最高です。ほんとうに。」
(終結部、48小節後半〜)

とりとめも無い文章ですが、一連の12のフレーズについて、その雰囲気を、あるテーマで文章にしてみたまでです。
次のステップのアーティキュレーションでは、この伝達表現の手法がテーマになります。
では、おしまいに、今話題の動物を主人公にしたスリリングなシーン、昔なつかしいフレージング練習課題を。。。
「にわにはにわうらにわにはにわにわとりがいます」

 



談話室 3.

30年以上も昔、ヘルマン・ケラーの「フレージングとアーティキュレーション」という本を買いました。
学生時代、その本は音楽表現のための音楽構造を解き明かすかような画期的な著書を発見したように思えました。
良いと思う本を友達にも読んでほしくて、それを貸すのだが、ほとんどの場合、それが帰って来ないことが多く、
結局、その後、私はその本をふたたび手にすることもなく、今日に至っています。
今も絶版にはなっていないと思いますが。
そしてその後、楽譜を見れば、フレージングを意識し、レコードでそれを確かめ、
ギターでの演奏にもそれを生かそうと思いました。
この音楽演奏の重要な課題は、初級のうちから、教えられないと、また自分で意識しないと、
人に伝えられる、本当の音楽の美しさ、楽しさが表現できないものだと思います。
たとえ、初心者用の練習曲をやる場合でも、この課題意識なくしては、音楽ではなく音列になってしまいます。
芸術の表現には、そのための高度技術が必要で、そのためにはフレージングがわかることが大前提です。
フレージングがわかるということは、
演劇のある場面でのセリフの区切れ(気持ちの流れのまとまり)がわかったのと同じです。
ここから、そのセリフの実際の伝達表現の本当の音楽の練習になるわけです。
つまりアーティキュレーションの練習です。
私はアマチュアだから、そこまでやらなくても、、、とは誰も思わないでしょう。
それでは、思い焦がれて、ギターという楽器を手にした意味はありませんからね。
なぜって、演奏するとは、音楽を聞きたい人に、自分がその美しさを提供することですから。
だから、自分の練習している楽器の演奏で、音楽への一線をこえるために、この課題を常に考えることでしょう。

余談室 3.

最近、私たち老人(?)のギター仲間では、Phiten(ファイテン)グッズが話題になっています。
年を取ると、肩こりとか関節痛が日常茶飯事ですが、
近頃はギターを弾くと、肩こり、腰痛、そして左指の関節痛、それに指の運動神経の劣化など問題が起こります。
もう我々年寄りにはハードな練習をしても、進歩より肉体的障害を増進させるようで、現状維持が精一杯です。
肩こりに効くといわれるネックレスや、筋力をアップさせるというリストバンドや、指輪、などなど。
チタンが生体電気を整えるというヤツです。
私もいろいろ試していますが、効くかどうかは、個人差(イヤ、思い入れの差)があるような。。。
しかし家の近所に、その店があるので、ついつい、家族でいろいろ買ってしまいました。
しかし、指輪(シリコンゴムにチタンが埋め込まれたもの)は、左中指の関節の痛みをやわらげてくれます。
右指にすると、コントロールがよくなるような気もします。
この約1年、左手首の腱鞘炎で、ムリはできませんでしたが、やっと直ってきたようで、
それがリストバンドの効果かなのかどうかは、元来疑い深い私には不明です。
効くと思うことが、肉体の受動性を自然に高め、プラス効果もあるとも思いますが。
それと、いろいろ指の筋トレ器具を試すより、ギターで正しい姿勢で適切な練習をゆっくり、継続するのが一番ですね。
まあ、50を過ぎると現状維持を目的とする、でいいでしょう。
できるのは、自分のレパートリーで、もっと音楽表現の可能性を追求することでしょうか。

ではまた。。。(2004.2.22.) 

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