4.  歌うことがアーティキュレーション


  音楽は歌であります。
歌のない音楽も、言葉を生み出した感情とその想い、それと同じように
楽音でそれを表現されたものなので、起源は同じ。
だから楽器演奏の目的は、その楽器の特徴を生かして、その音色で表情豊かに歌うことなんですね。

おっと、これは前回の「フレージングについて」と同じ
イントロですね。
つまり言いたいのは、フレージングとアーティキュレーションには密接な関係があり、一心同体だということです。
アーティキュレーションとは、英語の"articulate"、すなわち、意味のある言葉を明瞭に、
わかりやすく、意思(想い)を伝達するということです。
ちなみに、"article"の語源は元はラテン語で、「つなぐ物」というのが原義で、
それが「個の物」に意味が転化したようです。
それゆえに、アーティキュレーションは、音楽においては、「音のつなげ方の手法」ということになるでしょうか。

その基本的な練習のトッカカリとしては、その音楽の全体のフレージングがわかったところで、
まず、歌ってみることでしょうかね。
悪声でも、オンチでも、息絶え絶えでも、とにかく声に出して歌ってみることで何かがつかめると思います。
イヤ、ギターで弾けばいいんだ、と思うでしょうけど、まずは、歌は声で、という原点にもどりましょう。
できれば、ご当人は一流の声楽家のつもりで、思い入れたっぷりのカラオケ気分で。
もし、他人が聞けば、耳をふさぎたくなろうとも、かまわず歌ってみましょう。(弾きながらでも結構)
そうすれば、そのときのフィーリングは、きっとギターで弾く時よりも、
自分の内では表情(思い入れ)が豊かなはずです。
大昔のパッハマンや、最近のグレン・グールドなんかは、ピアノを弾きながらも、CDでもウナリ声を発しています。
オーケストラのリハーサルで、指揮者も言葉で言い尽くせぬところは、ウナってみせるしかないんでしょうね。
このように、大胆に声で表現してみることが、音楽表現に向かって、一皮むけるステップかも知れません。
なにしろ、演奏は、楽譜をもとに、自分の感性で、楽器を用いて、
音楽として具体的に情感を再現すること
ですからねえ。
人前で演技するという、日ごろめったに無い、表現行為にトライして、シャイな気持ちを捨てなければなりません。
指先だけで表現したつもりでも、それを聞く相手には、すごく小規模な表現にしか聞こえず、
もし自分の演奏を録音してみれば、自分でもそのことがわかって、思ったほどの説得力がないなあ、と思うでしょう。

演奏は、「聞く人に、想いが伝わる話し方とは、、、」を、考えるのと同じなので、
聞く立場から自分の表現の検証
が必要です。
よく言われるように、楽譜は、俳優の台本(シナリオ)とおなじです。
そのシーンの意味をイメージして、セリフの表現を試行することが俳優の練習のすべてでしょう。
先生に当てられて、トチルのを恐れながら教科書を棒読みする小学生のようでは、内容は人には伝わりにくいし、
かといって、「青年の主張」とかで、何か不自然な落ち着きで、過剰で妙なイントネーションで語るのもイマイチ。
最近のギタリストでは、ニュースを流暢に読むアナウンサーのように、わかりやすいが物足らない演奏もありますが。
とにかく、語られる言葉は、フレーズごとに、
自然にその言葉の情緒的な響きを効果的にして、想いを伝達しようとして語られます。
音楽(演奏)もしかりで、はじめに「思い入れありき」、そして、それを自然に演出して演技しなければ、、、

「ふと見上げると、騒音は遠のき、冬空に、綿毛のような雲が、街路樹の枯れ枝を暖かく包んでいるようだ。」
この心象風景を、俳句風に表現するなら、「綿毛雲、枯れ枝包む、街の空」。
ちょうど言葉のない音楽は、心象風景を凝縮してシンプル化した、一連の音の響きのようなものでしょう。
歌ごころのある人なら、この文章から漠然とメロディーが浮かんでくるかも知れません。
それは、この文章を歌詞としてではなく、言葉が音楽として情緒的に抽象化される人間の理想なのかも。
ところで、よく「行間を読む」と言われますが、俳句などは、それが読み手の想像力であり、
その奥深い言葉の仕掛けが作り手の才なのでしょう。
そして、受動的に創造性を発揮するのは、聞き手の感性と知性に負うところ大きいわけです。
音楽は作曲者の楽譜、それを再現する演奏者、そしてそれを聞いて自分の中にイメージをはぐくむものなので、
俳優の説得力のある演技と、その演技を生んだ原作者のテーマに共感する観衆とおなじです。
だからこそ、最終的な芸術の受動的創造者である聞き手に、その素材をうまく提供しなければなりません。
そのためにも、譜面からは、まず、その音楽のフレーズを認識することができていなければなりません。。
はじめの「ふと見上げると、、、」の一文を、声に出して読んでみて確かめましょう。
読んでいるうちに、きっとフレーズごとに、そしてフレーズを進めるごとに、
全体の風景と気分のイメージが鮮明に湧くでしょう。
そして、読み方(伝え方)を工夫したい気持ちが湧いてくるでしょう。
ただ、このとき気づくこととして、フレーズの区切りが、必ずしもアーティキュレーションの単位ではないということです。

「ふと見上げると、、」と、はじめるとき、静かに何かが始まるかのように人を引きつけようという思いを込めるでしょう。
そして少し間を置いて、「騒音は遠のき、」と、背景描写を淡々と語るでしょう。
そして間髪をいれず、「冬空に、、、」では、人の目を心の中で、空に向けさせるような、語調を強めて続けるでしょう。
ここで留意イすることは、言葉の区切れと感情表現の区切れば一致するとは限らないことです。
人が情景を認識したのを見て取って、「綿毛のような雲が、」と、ちょっと大げさなしぐさでテーマに入り、
すこしだけ間を置いて、「街路樹の枯れ枝を暖かく包んでいるようだ。」と、
言い聞かせるように、朗々と説得力のある結論口調で結ぶでしょう。
ただ、あまりにも高揚して、北朝鮮の放送局のアナウンサーのようになっては興ざめですがね。
そして聴衆が、それぞれの心にひとつの絵のイメージを完成させ満足したことを見届けて演技を終わります。
このように、音楽のフレーズも自在に演出されてこそ人に熱意が伝わるし、何よりも、
聴衆は、自分の中でイメージを膨らまそうと、語り手に大いに、純粋無垢に期待している
のです。
この文章を語ることで、人それぞれの情景を思い浮かべてもらえるなら、伝達表現は成功といえるでしょう。
語り手は、それために準備をして、ドラマチックな練習を重ねて、実際に人前で語るわけです。
なお、これを演劇にたとえれば、あらかじめ、背景を設定し、ライティングの段取りをして、
客席から見た主人公の動きのように、位置と動きを考える総合的な下準備の演出といえるでしょう。
音楽の表現は、日常的な人間の所作の行為、あるいは、物事の自然な事象になぞらえてみる習慣が必要です。
弾き手手にも、聞き手にも、何をも思いおこさせない音楽はないはずです。
喜怒哀楽、特にさまざまな感嘆の表現、はてまた、
水面の波の動き、ボールを投げて受ける所作とそのボールの自然な軌跡、
すなわち、あらゆる自然界の動きになぞらえ、求める表現のかたちに置き換えて体得できるでしょう。
だから、前回、パガニーニのソナタで、フレージングに沿って作文したような内容とは違って、
もっと、思いつきで、気持ちを表す感嘆の言葉のほうが、イメージ作りが簡単かもしれませんね。
「ああ〜、きれいだ」「うう〜ん、こまった」「おお!、これだ」「じゃ、そうしましょう」など。。。

そしてもうひとつ、自然界の万物の事象のうつろいに当てはめることも容易だと思います。たとえば、、、
2つの連続した音符が、ペアで順次連続するフレーズでは、、
まず、2つの連続した音符を、言葉のシラブル(音節)、あるいは運動の1サイクルと見たてます。
はじめの音は、あたかも、両手でバーレーボールを投げ上げたような感じをイメージすると、
ボールは勢いよく手を離れ、加速度をつけてあがって行き、まもなく減速して宙に止まり、そして落ちてくる。
そのボールの様を音で表現するのです。
そのために、適度な強さで、その音が膨らむような伸びかたをするように弾きます
ボールが落下してくるのは、そう早くはないでしょう、だから、その音の衰退を注意深く聞き、次の音にかかります。
ボールの落ちてくる速さに合わせて、両手で挟み込み、しなやかにブレーキをかけ、胸の前で止めるように、
ボールを受ける様をイメージして、二つ目の音を、息を止めるようにして弾きます。
はじめの音より、このとき強くは弾かないでしょう。また書かれた音符の長さどおりに長くはしないでしょう
なぜなら、受け止めたボールを静止させる消音時間が、わずかに必要だからです。
もちろん、消音という行為をしなくても、浜辺から引いてゆく波に、
次の波が覆いかぶさるように表現できればいいのですが。
そして、またボールを、はじめのように投げ上げるわけです。
この2つ目の音をうまく収めないで、次の新たなシラブルを無為に続けるようでは、
受けたボールをひざのあたりまで下げて、すぐにその反動で再び投げあげるような、落ち着きの無い動きになります。
これは、なんだか単調な無窮運動のようで、本人も、見ている方も精神的に疲れます。
また見るからにカッコよくないでしょう。
そして、このようなシラブルの表現で、連続しているフレーズをドラマチックに表現を組み立てます。
表現の要素としては、フォルテ・ピアノ、クレッシェンド・ディクレッシェンド、加速・減速、音色の変化などで。
この表現例を実際の曲に当てはめるなら、ソルの練習曲Op6-2(セゴヴィア20の練習曲の第3番)でしょう。

このように、フレーズを構成する、言葉のシラブルのイントネーションのようにまとまった音符を表現しつつ、
フレーズ全体の経過を、ひとつの波の様ように流動感のある生きた形にイメージして演奏を試みます。
もう、この時点では、
拍子や小節線や、音符の連桁や、さらに3連音符などの楽譜の数学的要素は二の次
になるでしょう。
もののはじめは「おもむろに」、やがて「調子に乗って」、そして区切りに向かって「おだやかに収束」するような
テンポやメロディーの抑揚の自然な変化によって、音楽表現が支配されるでしょう。
だから音楽の練習は、この段階では拍子やリズムや個々の音符そのものもを弾く意識から開放されるべきなのです。
ただし、根底には脈々と流れる、自然の力のような推進力のある、その曲独自のエネルギーを忘れてはなりません。
我々のまわりの自然の営みは、決して「無」に収束することなく、エネルギーは転化・変容し続けるのみで、
たとえ、リラルダンドしたり、あるいはフェルマータによって時間(テンポ)を延ばしたとても、
エネルギー保存の法則
は働きます。
このことは、クラシック音楽においてかなり重要な概念だと私は思います。特に日本人の感性において。

また、そのフレーズが二声以上の流れを持つときは、主従の関係の表現バランス、掛け合いの立体的バランスなども
見過ごしてはいけない大変重要なアーティキュレーションです。
完璧とはいえないが、ギターは多声部を演奏できる楽器であり、独奏曲では、それを機能として作曲されています。
つまり、フレーズの進行の中で、いくつかの立体的な異なった波の流れを重ね合わせて、はじめて
ギターゆえの和声の響きのすばらしさが発揮されます。
さきほどのソルの練習曲Op6-2も、二声の流れの表現として考えなければなりません。
主従の厳守と個々の役割、交錯するドラマ性、つまり、主役と助演とのバランスを演出する演出家として。
もちろん、それぞれの立場で全体を調和させ、ひとつの音楽として立体的にまとまるように

ところで、練習過程で、通常のテンポより、ゆっくりと練習することはよくあることで、また大事な練習ですが、
アーティキュレーションの練習を目的にしている場合は、
同じ曲でも、スピードによって、まったくちがうアーティキュレーションになることが多いことに気をつけましょう。
元のスピードのときのようなアーティキュレーションでは、何か自分でも不自然に感じることがあるものです。
たとえば、その曲の一部が連続する8分音符が4個でできているときなど、
速いテンポでは、ひとつ目の音のあと、3つの音を、弾むように一様に、「ターランランラン」と弾くでしょうが、
それが遅いテンポでは、二個一で、「ターラ、ターラ」のほうが自然なリズムに感じるからです。
それは、しゃべるときのテンポで、イントネーション、アクセントが、おのずと変わるのと同じことです。

このように、音楽をアーティキュレーションすることは、フレーズの情緒的表現であり、
楽音の立体的造形作業として、その思い入れの具現化は、時間の流れというキャンバスの上で行われます。
次回は、鈴木鎮一の「音楽表現法」に書かれている表現のコツを基調にして、
アーティキュレーションに迫ってみたいと思います。
そして、あたりまえのことばですが、鈴木鎮一の言葉のように、
「知っていることと、出来るということの間には、実に雲泥の差がある」ということを肝に銘じたいと思います。
この言葉は、ガーンと突き放されたように胸に突き刺さりますが、残された道は「試行錯誤」だけです。
その過程で、言葉としてわかっているが、その心がホントにわかっているかどうかを自問自答し続けましょう。
 



談話室 4.

著名な日本の音楽の教育者に、鈴木鎮一という人がいました。(1998年没)
そう、”Suzuki Method” で世界的に有名な人です。
ピアノ、チェロ、ヴァイオリン、フルートなどの英才教育に、ひとつの道を開いた人です。
彼の著書に「音楽表現法」(1957年著作、全音出版発刊)があります。残念ながら、今は廃刊になっています。
その本の冒頭で、彼は、こう書いています。
「音楽の演奏に於いて、それがどのように音楽的なよい表現がなされるかということは、
最も重要な点であるにもかかわらず、今までどこにも音楽表現の研究の書が見当たらないのである。」
また、音楽に親しむ重要なテーマとして、
「本書を知ることは音楽的表現の仕方を知るだけのことで、その実際に演奏する能力は、どうしても
音楽的センスを育てる教育を自分に行なわなくてはならない。
そして、「音楽的センスは生まれつきのものではない。」とも書いていて、
言葉(話し方)を自然にマスターしたように、耳で、良い音楽をいっぱい聞くことが、
自分の中で、音楽的センスが作られていくことを強調しています。
ちなみに、幼児の指導法は、手本を耳で聞いて、真似させる楽譜を使わない練習法を取っています。
私の娘が、4才でスズキ・メソッドの教室に、通ったときもそうでした。
また、第1巻ピアノ指導曲集(スズキ・メソッド)の冒頭では、
声楽の発声法(Vocalization)とおなじように、楽器にも発音法(Tonalization)が重要であるとも書かれています。
そして、この著書では、音楽表現法の要素として、
メロディの抑揚 / クレッシェンドとディグレッシェンドの表現 / ピアノとフォルテの表現 / 線と点と空間の表現
というテーマをメインに、多くの譜例をあげて説明されています。
その他、音楽的性格表現と用語、音形について、装飾音について、という内容です。
とにかく、この本は、独学の私には、ある意味、音楽表現の聖書のように思えたものでした。

余談室 4.


上記の本文の中で音源にリンクした、ソルの練習曲(Op6-2)の演奏は、つたない私の演奏です。
CDでは、お手本になる演奏もいろいろありますが、著作権の問題もあり、マガイモノで代替しました。
技術的におぼつかないところもありますが、綿々と書いていることを、私なりに実践しようとしている様子を
情状酌量のもと、ご理解いただければ幸いです。
思い入れの表現を十分に果たせないのは、結局、左右の指のコントロールが意のままにならず、
根本的に、基本的な技量不足であることを痛感します。
音楽の鑑賞力と歴史的な知識の習得や、楽譜を見ての表現の想像力の工夫は、頭の中の作業でできますが、
実際に楽器を手にして演奏表現するには、練習にかけた時間のなかで自然に習得する筋肉コントロール以上の
より積極的な工夫と地道な努力で、スポーツ選手の基礎トレーニングのように、それらを継続しなければんりません。
アマチュアにとって、音楽を考えることと弾くための基礎体力作りは、両方ともが永遠未達の課題ですが、
その適度なバランスと、それらの相互作用が大事だと思う次第です。
プロの域にまで達しなくても、「音楽としての一線を超えること」を目指すような演奏練習の道からは
はずれたくないものです。
その評価の分かれ目は、人が聞いて、何か音楽的な満足を刺激するものが少しでもあるかどうか、でしょうか。
人に不快感だけを与えるような演奏であるうちは、人前では演奏しないほうがいいでしょうね。

ではまた。。。(2004.3.1.)

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