5.  アーティキュレーションの場面


アーティキュレーションは、音楽の演奏における、「音のつなげ方の手法」である、
前回述べましたが、では、どのような手法で、それを表現するのでしょう。
ここからは、鈴木鎮一の「音楽表現法」にそって、音楽の表現の手法の要素についてまとめようと思います。

1.メロディーの抑揚について

まずメロディーの強弱のつけ方についてですが、彼は

第一の原則として、音階的な音の上下に正比例して、音の強弱を表現してゆくことを説いています。
旋律が音階を上昇するときは音量表現を大きくして、下降では小さくしてゆく。
これは、感情のおもむきの自然な法則(?)にかなった、ひとつの手法だと思います。
そして、そのメロディーの始まりの音の、音量、その音質・音色についての配慮が重要であることを強調しています。
つまり、曲全体を通して、ピアノ・フォルテのバランスを考えて、最初の音を歌い出すこと
それを意識して、「アニーローリー」「荒城の月」など、思いつく歌をヴォカリーズで歌ってみましょう。
これらを意識することによって、私たちの心がその曲に、何かイメージ(思い入れ)を作り出すように思います。
そして、その歌い方で、そのメロディーをギターで弾いて見ましょう。もちろん単旋律で。
あなた自身の指(歌手)は、あなたが、あらかじめ感じた曲のイメージを再現しているでしょうか?
そして抑揚は、なめらかに表現できたでしょうか?
そのとき、私たちは大事な収穫として、ピアノで歌うことの難しさに気づきます。
ピアノを意識しすぎて、弾く指が弦に当たらず、スカを食らってしまうなら、より一層に。
単音での、多用な弾き方の個々の左右の指の対応と、それらが連続したときの抑揚の練習の重要性もわかります。
そして、音楽はいろんな意味で、動的なコントラストをつけることを忘れてはならず、
そこに表現の基本があるようです。
単に、頭で音量の加減を考え、指の力加減するのではなく、その音楽から与えられた抑揚のイメージを、
音を順次弾くとは思わず、ヴァイオリンのように、太さの変動する旋律線の流れのように、無意識に弾く。
これだけわかれば、私たちの試みる音楽は、ぐっと「音楽」に近づくと思います。
誰も教えてくれないから、大概の人は、最初から終わりまで一様の音量で弾いてしまっていたでしょう。

楽譜には、mf、mp、p、f、などが書かれている場合があり、楽譜至上主義の人は、書かれた音符の位置で突然
アクセルを踏むかのように、標識に従わなければならないと思ってしまい、
自然な抑揚コントロールを失うことがあります。
まず、大事なことは、強弱記号は、ヴォリュームのレベル1とか、レベル5とかの物理的音量の尺度ではありません
ここからは制限速度は60km/hなので、その範囲で、滑らかなアクセル操作で走る、その要領に似ているかも。
いちいちスピードメーターを見ながらのアクセル加減、
という頭脳コントロールでは、ギクシャクして不自然な動きになります。
もっとも、実際には大概の人は、そんな道路標識(強弱記号)さえ気にもかけないでしいうが。

私は、このあたりで、メロディーの抑揚と、そのテンポの微妙な変化も関係すると思うのです。
ピアノという静かな音(弱々しい音ではない)は、テンポをゆるやかにさせる傾向があり、
フォルテの高揚した音は、テンポを推進させる傾向にあることも、音質量の原理だと思います。
ただ、クラシック音楽では、その自然の傾向に、にドップリ身をゆだねない自制心が、ある程度必要だとも思うのです。
すぐれた演奏家を聞くと、その自制心が、そのような場面では、
音楽表現を内面的な深みへと発展させている
ように聞こえます。

鈴木は第二の原則として、
作曲者が、意図した(楽譜に書かれた)ピアノ、フォルテでの抑揚表現について述べています。
これは、映像の流れに映し出される意図された事物の光と影のうつろいを見るように表現するということで、
我々アマチュアにとっては、手っ取り早くは、それに沿った良い演奏を聴いてみることで理解したほうがいいでしょう。
もっとも、人さまざまに、光と影の感じ方は違うことも念頭においてでが。
これって、かなり難しい表現コントロールであって、作曲者の意図を、よく理解できなければ不可能なことです。

さらに、鈴木は、
メロディーの飛躍する音の流での抑揚が、無機的で単調にならないようにすることも注意を促していますが、
一般的に、メロディー音が大きく飛躍・下降する場合には、ここでも自然の摂理があって、
音程の跳躍には、普通よりも、心もち時間を要し、離れた音には、それなりのコントラストが生まれるべき、
と私は思います。ここにも、音質量の原理があると思うのです。
つまり、普通の階段よりも段差の大きいときの歩き方をイメージすればわかるでしょう。
おおげさでなく、これが絶妙に表現されて、そのメロディーの心象イメージが気持ちよく生きるところだと思うのです。

鈴木は、モーツアルトのピアノ・ソナタ(トルコ行進曲付き)の第一楽章の冒頭のテーマを例にして、
メロディーの音程差の具体的な表現留意点を挙げています。

曲はピアノから始まるけれど、1小節目から3小節目に向かって、徐々に控え目にするのが自然な美しさなので、
1,2,3小節目の、各1拍目は順次3段階で弱くするべきである。

かつ、1,2小節目の4拍目までのレガートの各グループでは、4拍目の音(ミ、レ)に、音量の比重の山があるけれど、
さきほどと同様に、2小節目の4拍目は1小節目のそれに比べておさえること。
さらに、3小節目の1拍目(ラ)には十分な心遣いが必要。
となると、6拍目の音から次の小節の1拍目(シ、ラ)への高度差のある下降レガートに、
かなりセンスを要するところとなるでしょう。
この、小節の最後の音がレガートのはじまりなのですから。
鈴木は、これらを「音楽の話し方のうまさ、心の通じる話し方」ということばでたとえていますが、
なんと音楽表現はデリケートなものかと改めて思います。

よく知られたこの曲の譜例をみて、ふと私は表記法と演奏法の点での留意すべきところがあると思いました。
それは楽譜上の、音符をつないだ弧線です。(全音の曲集と同じ書き方)
6/8のこの曲で、1/小節目の1拍目から4拍目にかけて弧線がつながって書かれていて、
次に、6拍目から、2小節目の4拍目までが、2つ目の弧線でグループ化されています。
さらに、2小節目の6拍目と3小節目の1拍目のふたつの音が、3つ目の弧線でつながれている。
改めて、ウイーン原典版(音友)を見ると、弧線は、付点8分文音符と次の16分音符にしかつけられていなかった。
全音の楽譜につけられた弧線は、フレージング・マークではなく、アーティキュレーションのレガート記号であり、
その音群をなめらかにつないで弾き、弧線間のハザマには、星のまたたきのような息遣いが求められます。
フレージングとしては、1小節全体、2小節全体、3小節から4小節の、3つのグループがフレーズだと思います。
だから、あきらかに、フレージングとアーティキュレーションは、まったくちがった音符群のグルーピングなのです。
アーティキュレーションを意図するレガート音群は、フレージングをまたがっていることを示すものだと思います。
基本的に楽譜にはフレージング・マークは書かれませんし、
このことは、ちょうど、語る言葉において、単語をつなぐ接続語が、一連の言葉の区切りであるにもかかわらず、
その接続語が、前の言葉とは切り離されて、次に続く言葉につながって情緒的に語られるのと同じようなものでしょう。
また、フレーズの中で、言葉が意図的に中断されるのは、
心のゆれ(戸惑いや絶句など)を表現するようなものでもあります。

この項の終わりでは、「音楽表現は楽譜に書ききれるものではなく、印刷上の都合とミスもあり、
無批判に楽譜に書かれた記号や、その場所を、そのまま盲信してはいけない」とあります。
また、楽譜に書かれたクレッシェンドを見たとき、音形を重視した上で、それを効果的にするために、
幾何学的なクレッシェンド記号にまどわされず、ドラマチックにする意味で、
一層静かにしておいてクレッシェンドすることが効果的であると、次の章のテーマを示唆しています。

2. クレッシェンドとディクレッシェンドの表現

鈴木は、若い頃に教えられたように、徐々に音を大きくしたり、小さくしたりして練習しても、
この強弱の動的変化の音楽的効果が得られないことに悩んだと書いています。
部屋の明かりが徐々に明るく、あるいは暗くされても、その演出者の意図は、その部屋にいる人には、
大した環境の変化には感じられないのと同じだと、そのことをたとえています。
現実的な手法として、心理的効果としてのコントラストの演出を説き、その例として、
街の騒音の中で聞くフォルテと、真夜中に聞く同じフォルテの効果の違いで、それをたとえています。
もちろん、楽器のフォルテッシモの限度も認識しておかなければなりません。(音楽であるための限界)
結論として、「静かなポイントを作ってから、そこからクレッシェンドをスタートさせる」こと。
時として、鈴木の言うように、楽譜には無いピアニッシモから、”一旦引いた”ところから始めると良いかもしれません。
基本的には、比例的に音量が増すよりは、
グッと我慢して、盛り上がるようにクレッシェンドしたほうが効果的
であると。
もうひとつの併用できる方法として、鈴木は「アクセントの増強」を指摘しています。
それは、音形の特徴を捉えて、適切な場所で、適度なアクセントで
徐々にタタミかけてゆくことで、気持ちの高揚を表現します。
このとき、音色の変化も伴うようにな演出も大事なので、ギターでは、弦を弾く右手の位置の移動も考えるべきです。

そして、ディクレッシェンドについては、印字された場所から、すぐピアノに急速にしてしまうことを戒めています
あまり早くから弱くする体制に入ると、萎縮した音楽になる、ということです。
それと、弱くしてゆくということは、力を抜いてゆくということではないと思います。
「の」の字を習字で書く場合、徐々にやせ細ってゆく筆の弱々しい終わり方を想像すればわかるでしょう。
グッと溜めておいて、サッと抜けてゆく筆さばきの痕跡は、その筆の走りが目に浮かぶようでしょう。
サッと鳥が飛び立つように消えてゆく筆跡に、なぜか力強さを感じるでしょう。
鈴木は、若い頃の自分の等速減衰のようなディクレッシェンドの表現を反省しています。
もちろん、音楽にはケースバイケースで、さまざまな表現の可能性があることを否定してはいません。
これは、リタルダンドの場合の、時間コントロールの効果的表現にも通じると私は思います。
なお、この章について理解するには、次の章のピアノとフォルテについて、
そのターゲットの何たるかを知っておく必要があります。

3. ピアノとフォルテの表現法

このテーマについては、鈴木は、井の頭公園で、彼が体験的に会得した思いを述べています。
ピアニッシモは、すべてが静止したような池の水面の「動かぬ静けさ」と知り、
フォルテ、フォルテッシモは、吹きすさぶ一陣の突風の「アクセント」を想像したと。。。
つまり鈴木は、ピアノとフォルテを、音の感覚における「静」と「動」として捕らえています。
これぞ、音楽が自然界の万物のうつろいに即したものであると思える証でしょう。
あらためて私は、ピアノとフォルテとは、音量(ボリュームのツマミ)の大小でないことを付け加えておきます。
そして、特にフォルテッシモに限度のあるギターでは、このディナーミックの幅を広げるためには、
いかにピアニッシモを小さく明確に表現するかに尽きるでしょう。
そのためには、
左指は少し強めに押さえ、右指の動きのストロークは小さく、しかしそのスピードは速く、雑音に注意して、
極度の緊張感をもって体をかがめるようにして、それでも右手首はしなやかに、
そして弾いたあとの音の持続は、左指で音をさらに揺り起こすようにして。。。
これが和音となるとさらに難しい。各右指の力のバランスが。
全指を固めてしまってはダメで、この場合にこそ、各右指の任意独立性が問われます。

ピアノでは、小さく弱く弾くのではなく、美しい音で、拍子をあいまいにせず、
そして音楽が萎縮することなく、むしろ、命の息吹を秘めて(凝縮して)、静けさを歌え、ということになります。
その注意点として、必要以上のアクセントによって、静けさを乱さぬようにしなければならない。
そう言えば、声楽家が、ピアノで歌うとき、目を見開き、口を突き出すようにして、出来るだけ息をひそめて、
つぶやくようにではなく、体のうちに沸き起こるエネルギーを自ら抑制するかのように歌う姿が目にうかびます。
私は、ピアノとは、弱く小さくではなく、強く小さくであり、さらに
近くで明確にささやくのか、遠くから呼びかけるのかの距離感も大事だと思います。
遠くから聞こえる鐘の音を表現すると思えばいいでしょう。(そばで聞けば大きな音であるかもしれない音)

そして、フォルテは、どのような感情表現をフォルテでおこないたいかの裏づけが必要で、
音楽のテンポによっても、その表現のパターンは変わりますが、
自分の出しうる最強の力で音を出すことではないし、まして、音楽をつぶしてしまうような粗雑な音は論外です。
フォルテはピアノの場合とおなじで、発弦法のテクニックにもかかわる節度・デリカシーの問題です。
なお、モーツアルトのフォルテと、ベートーベンのフォルテでは、求められたフォルテのイメージが異なるというように、
強弱のイメージとして、その音楽の時代性にも配慮が必要です。
それは楽器の発達過程に関わる宿命において、それぞれの時代に作曲された音楽のスタイルが違うわけです。
リストの時代に、ピアノがまだ未熟な楽器であったなら、彼の創造する音楽は違ったものになったでしょう。
なおさら、初期のピアノのように、我々のギターは強いフォルテッシモは苦手な楽器です。
このフォルテの奏法については諸説があるもので、和音の奏法では、
ある人は、弦を表面板方向にできるだけ幅広く振動させるために、握りつぶすような右指の運動を説いたり、
表面板を大きく振動させるために、弦からブリッジに強い振動を与えるために、右指を固めて、ブリッジ寄りで、
一旦弦を押し込むようにして、跳び箱の踏み板を蹴るように弾くとか。。。
昨年来日したシュタイドルが、コンサートで弾いた、枯れた19世紀ギターでのフォルテの和音は見事でした。

ところで、アクセントをつけるとは、その音を、ただ単にフォルテで弾くことでもありません。
ピアノ・フォルテは、たとえると部屋の明かるさのようなものであり、
アクセントは、そのときの明るさのなかでの適度なフラッシュのようなものかもしれません。
アクセントとは、強調であり、メリハリのある音で、その音を浮き立たせることで、音色にも関わる表現です。
だから、ピアノで演奏される箇所でも、必要に応じてアクセントをつける場合もよくあるわけで、
それゆえアクセントは、ピアノ、フォルテとは区別して認識するべきでしょう。
それでも、フォルテには、感情表現の点から、アクセントをつけることを包含する場合が多いのは当然でしょう。

結局、フォルテ・ピアノ、および、クレシェンド・デクレッシェンドなど、
これら「デュナーミック」と言われる音楽表現の要素に共通して言えることは、
その音楽の流れの中で、無造作ではなく、表現結果の効果を計算して、コントラストを聞かせることでしょう。
もちろん、そのコントラストには、音の強弱だけでなく、音質・音色の変化が、
それを助長しなければならないと思います。
さらに、その音符の前後の音との関係は、どのようにあるべきかにも及んできます。
もはや、音楽表現法は、音の強弱のコントロールという、その音の表現、という視点から、
音と音の関係をどのようにつないで表現するかの、相対的なテーマへと入っていきます。
鈴木は、次の章として「線と点と空間について」というテーマで、それを語っています。
これぞ、アーティキュレーションの本質になるわけですが、
彼がこれを書いた1957年頃には、アーティキュレーションという言葉は流布していなかったのでしょうか。
次の章への前ぶれのように、鈴木は、アクセント(あるいはフォルテッシモ)の音のコントラストを明確にするために、
直前に、瞬間的な空白の時間を作ることを暗示しています。
これは、私が以前に触れた、積極的な消音を、直前の音に施すことによって可能になります。
つまり、直前の音を控えめに、かつ音符の音価(長さ)目いっぱいに弾かず、そっと収めて、
瞬間的な空白の後に、テンポをしっかり捕らえて、アクセントのある音を強く響かせることです。
この相対的な音の処理(演奏法)が、アーティキュレーションの次のテーマになります。

最後に、私の演奏を、ひとつの検討課題としてお聞きください。タルレガの「マリーア」です。
さて、マリーアはどんな女性でしょう。
その人物像を想像するところから音楽作りは始まります。
年は18才くらいのスペイン女性。清楚な顔立ちで、しとやかな振る舞いに、隠された好奇心と多感な夢想。
おとなびた冷静さを作る自意識の中に、
意に反して思わずこぼれる女性的な感受性の言動に、思わず戸惑うまなざし。
音楽を奏でるということは、楽譜という素材で、立体的な塗り絵をしゆくようなものですね。
美しい絵画の前に釘付けになるとき、それは瞬間を捉えた絵なのに、まるで映画のように心を駆け巡ります。
私のつたない演奏を素材として、あなたのアーティキュレーションの視点を考えてみて、
そしてその視点から感じる問題点などについて考えていただければ、、、と思います。

 



談話室 5.

私はこれまでの文章のなかで幾度か、音質量という造語を使いました。
音質(音色)、音量、音勢、その他もろもろの音の表現にかかわる要素を一言に集約したまでですが、
そこには、物質のような重さや、内在するエネルギーの概念を強く意識しています。
それは、重厚な和音とか、軽やかなパッセージ、というように、楽音は重さ軽さで語られることが多いからです。
つまり、音質量は、個の音の状態のことだけれど、必ず連続した流れの中でその意味を持つものです。
そして連続すると言うことは、時間的な要素と深く関わります。
それは、音楽は、必ずしも、ある一定のテンポのままの等速運動で終始するのではないという意味です。
ちょうど、山中の森で出会うような、渓流の水の流れの変容のように。
流れを感じさせないで穏やかにくつろいだような淀み、細い岩の隙間で騒がしく先を争うような水のたわむれ。
地形の変化に応じて、水はその勢いと流れる速さを、まるで何かの法則があるかように生きた動きをします。
ただ、常ににあるのは、低い方へと流れる絶対的な水の変容の自然の摂理
このように自然も音楽の営みも、それらは「ある法則によって」ではなく、多分「そのような法則があって」と思うべきで、
理屈で理解したことは、その本質の骨格でしかなく、
感動とはそれを覆い隠した、そのものの流転する姿容にあるのでしょう。
その音楽の流れの中で、ある瞬間、ある音符が物語るある情感は、
そんな法則(感性の秩序)によって、テンポを歪ませるエネルギー(音質量)を持ち、
聞く人には、そうあることで、むしろスムースな、その音楽のテンポ感を感じるということです。
極端な例では、ウインナワルツの3拍子のように。あるいはセゴヴィア特有のアゴーギク(緩急)など。
音楽が心で刻む時間の流れと、そのときの物理的な時間の流れは、エネルギーを持つ音質量によって、
まるで相対性理論のように、時間の流れにズレを生じさせるかのように。

余談室 5.

私には、ある処に、何年も世代を越えて住み着いている野良猫集団の友達がいます。
友達と思うのはこちらだけで、彼らは私の猫缶のみやげが目的で、
行けばニャーと鳴いて寄ってくるだけのことでしょうが。
彼らとのクールな付き合いで、いろいろと猫の習性(自然な営み)を観察することができます。
飼い猫のことは良く知らないけれど、野良猫は、大変警戒心が強く、人に触れられることを避けます。
しかし性質にも個体差があて、1年以上たっても警戒心をとかないもの、図々しくも膝の上を歩くヤツ。
週に1度会いに行くと、しっぽを立てて、背後に回って体を摺りつける甘えのしぐさをします。
あるいは、猫同士が動きまわりながら頭をこすりあう喜びのしぐさをします。
不思議なのは、私が歩くとき、駆け寄ってきた彼らはなぜか共通して、私が次に出す足の場所に来て、
よく踏みつけそうになって、こちらがずっこけそうになることです。
感心するのは、エサを投げてやるとき、早い者勝ちのルールがあって、力づくで奪わないことです。
たとえボスであっても。ダメなら仕方ないとでもいうように。
ただグループ(血縁)外の猫に対しては排他的で、また、しつこい仲間には猫パンチをかますこがありますが。
そして、落ち着くと、前足を舐め、顔をぬぐい、私から少し離れて、じっと座って目を閉じてまどろみます。
そして、前後に大きく延びをして、目的もなく場所を変えて、また座り込んだり、寝そべったり。
猫は個人主義的で、きれい好きで、もの静かで、あきらめが早く、犬のようにベタベタせず、
じゃまにならない友達です。
でも、ある日以降まったく姿を見なくなった猫や、深いキズを負ったオス猫、片目を失ったボス猫、
お腹が大きくなったメス猫、いつも仲間はずれにされ一歩引いている猫など、
生存の厳しさも時として感じられ、そんな自然に生きる彼らの様子を眺めています。
ふと思ったんですが、「マリーア」て、タルレガが可愛がっていた猫かもしれないなんて。

ではまた。。。(2004.3.13.)

青と緑の目のネコです

 

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