7. 点としてのアーティキュレーション
鈴木慎一の「音楽表現法」、第4章「線と点と空間」の続きですが、
今回のテーマ「点の表現」を、私はあえて「アーティキュレーションの原点」として、重要な位置づけとしました。
それは演奏における音楽的センスのバロメーターでもあると私は思うからです。
ここでいう点とは、フレーズの中のひとつひとつの音であり、
その弾き方、主にスタッカートを中心に書かれています。
その意図は、私が頭初から用いている「積極的な消音」と言う表現で求めているものが含まれます。
ギターのアマチュアがある程度して、そこそこの曲を弾くようになっても、
音を出すことに専念して、消すことについてはほとんど練習していないので、
いざ音を消すときになって、なんとも、ぶった切ったようにな消音をするものです。
また、弾いた音を消すことを別のアクションのように思って、
音楽の流れを止めてしまうような、時にはテンポを乱すような逆効果にもなりがちです。
スタッカートや積極的消音は、音楽の流れを区切るものではなく、
むしろ、軽快に音をつなぐためのものといえるでしょう。
カエルがピョンピョンと飛ぶ様子を見ていると、
着地して飛ぶまでの静止して見える瞬間が、音楽での空間のように思えるのです。
しかし着地して体が静止して見える間、カエルの意識は静止していないことを感じます。
もちろん音楽では、それは弾かない演奏上の空間であって、実際には残響によって自然なものとなります。
そして、カエルが連続して、次に飛び出す瞬間が、流れるテンポのタイミングです。
カエルがひと飛びして着地するたびに、足をくじいたりすることがないのと同じで、音楽では
ひとつの音を弾くとき、音を出すことと、消すことを、ひとつの連動アクションとしての認識で、
スムーズになされなくてはなりません。
カエルが、ある目的の場所(次のリズムの音符)まで飛ぶとき、その跳躍の高さ(音の強さ)が
その時々に異なっても、その跳躍力に見合った着地体勢でピタリと接地する運動神経のように、
その音をひずみなく終わる(消音する)、コントロールが備わっていないと自然には見えません。
接地している瞬間に、着地(消音)と次の跳躍(撥弦)が動作が連動していることへの注目も大事ですが、
もっと大事なのは、発音した音を十分に響かせてからの消音処理であることです。
おそらく人の目に美しく見えるのは、のびやかに弧を描いて飛んでいる時の姿でしょうから。
だから前回の「ハトポッポ」でも、「ポッ」と弾くとき、「ポッッ」と寸切れにするのではなく、
気持ちは「ポオッ」というつもりで弾くことであり、この「オ」に音の豊かさがあるわけです。
たとえば、ソルの練習曲(Op29-5,セゴヴィア編の20番)では、八分音符のメロディの消音や、
重音では、音を伸ばす八分音符と、消音する八分音符など、全体を通じてむつかしい課題です。
冒頭の低音の単旋律には、スタッカートと書かれた楽譜もありますが、
歯切れよい豊かな音と消音の練習だと思います。持論の積極的消音です。
対位法の和声の部分では、次回のテーマの「和声のアーティキュレーション」の課題も含まれます。
そして定石どおり、フレージングの認識と、連結組立てを考えないと、無窮動のハタ織機のように、
最初は軽快に聞こえるけれど、だんだん耳について逃げ出したくなるようになったり。。。
また、ソルの練習曲(Op6-3,セゴヴィア編の11番)でも、スタッカートでなく、休符の練習とすべきです。
弱拍のスラーでは、m でそれを弾いたときは、 i
でそっと消音します。
それに、この曲では、和音の呼気とスラーの吸気のペアの表現も大事なアーティキュレーションです。
ところで、消音の基本練習そのものは単純で、
単音でも和音でも、強く弾いて瞬時に、雑音なく消音することから練習します。
消音は、弾いた指、あるいは空いている指、あるいは押さえた指、押さえていない指を自在に使います。
瞬時の消音は、速ければ速いほどよく、それができてしまえば、ゆっくり消音することは簡単なことです。
もっとも、その消音タイミングは、その人の音楽的センスを赤裸々に暴露するところでもありますが。
撥弦後、たとえば0.1秒で、ブツッとではなく、サラッと消音して、
次の撥弦タイミングをあせらずに待って、正しく遅れずにテンポに乗ってゆくこと。
そして、この待つあいだの空白の音楽的フィーリングを、連続したリズム感として体得することです。
実際には、アマチュアの消音動作は早すぎる傾向にあり、詰まった感じがすることが多いようです。
つまり、瞬時にきれいに消せる能力があるが、実際には、
空白までの響きを目いっぱいネバって消音することが本来の目的です。
早すぎる無造作の消音が、音の膨らみを殺した、トゲトゲして、落ち着きのないスタッカートにします。
この練習には、弾く練習よりも、良い演奏を捜し求め、かつ比較することで、まず感性を養うことでしょう。
豊かな音とその消音の演奏を聞くとき、音がよく膨らんだ後に消音されていることを聞かねばなりません。
いわば、「タッ」というよりは、「タアッ」という感じの「ア」の膨らみのあとにきれいな消音を感じるはずです。
自分の消音と、その音の膨らみは、意外と録音して自分で聴いてみないとわからないでしょう。
良い演奏を聞くとき、聞くべきものをホントに聞いて自分の課題を見つけているかどうかが問題で、
文章を読んで、わかったつもりでもダメで、少しでも、聞いたものを練習で身につけないと意味がありません。
まずは、単音のメロディでフレーズを意識して、その中で消音の練習をしましょう。
自分でいろんなフレーズを即興的に作曲してみて試してはどうでしょう。
あるいは、楽譜がなくても弾ける唱歌やヒット曲のメロディでもよいでしょう。
卑近な例ですが、「マイゴノ、マイゴノ、コネコチャン、、、」と弾いてみましょう。
これは前回の「ハトポッポ」の復習でもあります。今回は余談ではなく、本論です。
「マイ」 とレガートで弾き、かつ「イ」 は、弱めの音で弾き、普通より少し早めにそっと消音します。
この分部のレガートと消音は、1拍を8分音符ふたつがペアになった「レガート&消音」の定型パターンで、
この「呼と吸」のパターンは、音楽では頻繁に発生する重要なアーティキュレーションです。
これができている人と、できていない人では、音楽表現において大きな差があると思います。
いわば、音楽の生死(息遣いの有無)の差ともいえるでしょう。
そして、「ゴ」 と「ノ」 にあたる音は、軽快さを出すための「積極的な消音」をします。
このことを、「次の音を弾くときに、指を弦に置いてから弾く」、という人がいますが、確かに、
見かけはそうですが、消音のために、次に弾く指で意図的に消音をして次の撥弦を待つことなのです。
それと、厳密に言えば、この「ゴ」 と「ノ」 と、先ほどの「イ」 の撥弦と消音は、音質量において異なります。
なお、この「マイ」 のレガートは、音楽的口語(?)でいえば、「ターラッ」という歌い方にあたります。
そして、「ゴノ」 は、「タッタッ」になるでしょう。気持ちは、「タアッタアッ」です。
この「ラッ」「タッ」などが、これから述べる「点の表現」のスタッカートの原点といえるでしょう。
つまり、この自然な消音ができていないと、スタッカートは特別なものに思えてくるでしょう。
私は、消音は特別な奏法とは思いません。むしろ頻繁に無意識に使われるべきものです。
おすすめしたいことは、「マイゴノ、マイゴノ、、、」と、ピアノの鍵盤で弾いてみてほしいとことです。
玄関のブザーを押すような鍵盤のタッチではなく。以下のようなタッチは、はじめてでもできるはずです。
指1本ではダメです。右手で弾くなら、「マイゴノ」 は、m,p,m,i
と弾きます。
後ろの三つの同音は、p,m,i,
と指を変えて弾くのがピアノの常道です。
はじめの m を弾いた後、その指を離すときに、
それをテコにして p
をそっとレガートに弾きますが、それはすぐに跳ね上がります。
つまり、p は音を持続しようとして踏みとどまりますが、m
の浮力につられて鍵盤から離れます。
これが、ピアノでの「ターラッ」の弾き方です。手首で弾くといっても過言ではないでしょう。
そして次に、m,i
とホッペタを指先で、しっかりつっつくように弾きます。(ホッペタが痛くない程度に)
これは、キツツキのようなアクションで、手首のバネで軽く弾きます。
振りかぶりすぎると短い衝撃的な音になります。
これができれば、先ほど述べた「イ」 と「ゴ、ノ」 の消音の仕方の違いがわかるでしょう。
なおピアノでは、同じ音を続けて弾くとき、かならず指をはなすので確実に音が途切れます。
しかしピアノは、その途切れを残響で生かし、個々の音をなめらかに明確にするもので、
聞いていて途切れたようには聞こえないのです。このあたりがピアノ製作の発達のポイントだったでしょう。
またピアノ奏法で、同じ音を指を変えて弾くことは、発音をリフレッシュして生き生きさせることだとも思います。
この4つの音だけのピアノ初体験を、ギターにも生かして欲しいのです。その発音フィーリングを。
もし、弦楽器なら、「マイ」 のふたつの音を、あらかじめ押さえておいて、下げ弓でレガートに弾きます。
なお、ふたつの音をはじめから同時に押さえておくことはレガートのための伏線でもあります。
弓は弾ききって弦から離れるようにします。ただし、「イ」
ではアクセントを少し意識するでしょう。
つまり、弾き始めの音には、おのずとアクセントがあるが、その動作上での弾き終わりでは力を失うからです。
「ゴ」 は上げ弓で、「ノ」 は下げ弓で弾きます。いずれも短く弾いた後、弓が弦から離れます。
左指は、ほんの軽く、同じ音を押さえ直す気持ちです。
(ギターでも、押さえ直すことで、同音の連続でも右手に少しアクセントがついて音が生きてきますよね。)
このとき、弓が弦上をバウンドするようにアタックし、自然に弓が跳ね返されるようにするのです。
なお、「ゴノ」 の二つの音の強さを比べるなら後の方を弱くするのが音楽的センスであり、かつ、
次のリフレインの始まりを際立たせるコントラス処理が演奏の質を高めます。
このように、他の楽器では、音作りと後処理にさまざまなテクニックを使います。
ギターだけが、単純に指を動かすだけで演奏しているなら、それでは音楽にならないことは明らかでしょう。
とにかく、ギターは適度に(早めに)に音が衰退するので、弾きっぱなしになりがちなのです。
でも、他の楽器のように、「点」、つまり、終始が極端に短い「線」、に深い表現力をもとめましょう。
そして、そこに付随的に発生するのは「空間」であり、何かを語る無音の状態の表現がさらに重要なのです。
3) 点の表現
レガートに対する、スタッカートについてですが、演奏の処方は、書かれた音符の長さ(音価)よりも短く、
音を切る(あるいは消す)ことになります。 ここではフレーズ内の音群でのはなしです。
明らかに、スタッカートは、ひとつの音の問題だけではなく、断続的な音の連携の問題です。
このスタッカートは一概には定義できるものでなく、
音楽の持つ趣向、テンポ、フレーズの音形とリズムによってさまざまです。
作曲家が指定して「・」を音符の上下に付加して書かれた場合や、演奏者の判断でする場合など。
理論書では、その多様性の結果を分類して、
ノンレガート、レジエーロ、メゾスタッカート、スタッカート、スタッカーティシモなどと、
その様々な消音の仕方を区分して呼ばれることもあります。
それに弦楽器では、弓を弾ませて断続的にバウンドする音を細かく弾くスピッカートといわれるものもあり、
スタッカートは、1回ごとの弓で弾くと定義するとの説明もあります。
とにかくこれらの呼び方は、分類学的な現象結果の種類であり、
それぞれについて勉強する必要はあまりないように思います。
また、音楽の教科書では、8分音符のスタッカートは、16分音符と16分休符に分割して弾くとありますが、
プレスト、ヴィヴァーチェ、アレグレット、アンダンティーノなどでは、おのずと残響のありかたが違うので
そのように数学的に、1/2の長さなどというのも無意味です。
それに、これらは音を切るだけではなく、アタックでの音質量(鋭さ、軽さ、強さ、太さ)などの、
スタッカートする大儀名分(思い入れ)がなければならず、
消音の絶妙さが、その表現を成就させるものと言えると思います。
そして、重要なテクニックとして、
スタッカートされる音の直前の音では、アクセント同様にわずかな空白を作ることです。
鈴木のおこなった弦楽器でのスタッカートの指導法とは、フレーズをピアノからフォルテに変化させながら弾き、
1音に使う弓の長さを徐々に長くして、
フォルテに向かっては、1音での消音時間を次第に短くさせることによって音量を増し、
アクセントをつけてゆき、多少テンポをゆるめることで、さらに音の勢いの増幅を演出するように教えたそうです。
それと同時に、何よりも楽譜を見ながら良い演奏を聴いて、ニュアンスを感じ取ることでしょう。
そこで注意することは、
良い演奏はあまりにも自然に演奏されていて、聞いていて、それがスタッカートに聞こえないことです。
それは、音が軽やかに舞い、あるいはきらめくように、気持ちよく聞こえるからです。
モーツアルトのピアノ・ソナタなどを見て聞いて、ノンレガートを見出せれば、
その手品の種の入手はまもなくでしょう。
そして、ギターを持てば、消音する基本テクニックの必要性を改めて気づくでしょう。
練習方法としては短ければ短いほどいいわけです。0.5秒よりは0.1秒で消音する。
ただし、軽やかさを求めるために、そのアクションは衝撃的、鋭角的、刺激的であってはなりません。
アクセントを要する場合のみ、そのようにあるべきでしょう。ただし音楽の美的範囲内で。
ここで、鈴木が掲げている楽譜を紹介します。スタッカートの記譜と実際の演奏の違いです。
次の曲が、アレグレットとなっているときの話で、
Aの2小節目前半は、Bではなく、Cのように弾かれるべきだという、生きた読譜の一例です。
楽譜を法規のように固執すべきと思う人には受け入れがたいことかもしれません。
どうでしょう。スタッカートは作曲家の表現の気分から生まれたものであって、
それを演奏者がそれを理解して再現するとき、
それを効果的かつ自然なかたちで人に伝え実現する例だと思います。
ただし、Cの楽譜を見て、そのリズムを頭で考えて弾こうとしては本筋がわかっていない証拠で、
「気がつけば、おのずとCに近いかたちになっている」のが、自然な情緒的表現なのだ、と私は思います。
なによりも、音符に書かれたスタッカートが、どんな気分を作曲者が求めているかを考えることが
楽譜を理解する根本なのです。それは時として楽譜の不完全さを見抜くことでもあります。
また、滑らかなスタッカート(ノンレガート、メゾ・スタッカート、レジエーロ)の記譜の時代による違いについて、
ベートーヴェン以前では、音群に対して、「・」と「レガート弧線」を併用して書かれ、
それ以降では、「・」にさらに「-」のテヌート記号をつけ、さらに「レガート弧線」をつける場合もあると。
ところで、鈴木は、ノンレガートについて多く触れていませんが、
私は、ギターでは、アンダンテより早い曲では、基本の弾き方はノンレガートだと思っています。
それがギターで、いちばん自然だと思うからです。
シニカルに言うならば、
アマチュアのレガートは、ノンレガートに近いからです。(指の敏捷性不足ゆえ、連続音が途切れる)
シリアスに言うなら、
レガートとスタッカートの中間のノンレガートをニュートラルにして、点の表現に幅をもたせる。
となると、なおさら消音技術が必要となります。
終局的には、ノンレガートは音を切る(消す)行為ではなく、
次の音を明確、かつ軽やかに連結するための空間作りを無意識におこなうことでしょう。
そこでもっと大事なことが、メリハリのあるその弾き方のために、
さらに撥弦タイミングに注意をはらわなければなりません。
自分のイメージするテンポを実現するのに、たとえ撥弦が0.1秒でも遅れれば、消音は逆効果になります。
とにかく、撥弦のときには、音質量を表現しつつ、かつ消音タイミングも想定した的確な撥弦が大事です。
いわば、飛び石をリズミカルに飛んでいくようであればいいわけです。
石の間隔の変化をテンポの揺るぎとすれば、
それに見合った跳躍力(過不足のないエネルギーの音質量)が必要です。
そして、着地している間が、テンポの変化を表現する重要な空間です。
あとは、その一連のアクションが、いかにカッコ良く見える(聞こえるか)どうかでしょうね。
点の表現に関して、次のような特殊な強弱記号についてですが、、、
まず、fp 、sfp
では、アクセントを意味するが、フォルテのアクセントはピアノを持続することです。
また、fz
では、その音自体の中でアクセントの後、急激にピアノにし、
sfz は、その音の中で急激に盛り上がってすぐにピアノになることですが、両方ともギターでは不可能で、
どちらも「際立ったアクセントとする」、で良いでしょう。
なぜなら、このような特殊な強弱記号は、曲想がピアノ(p)の流れのなかでもでてくることもあり、
強弱の遺憾に関わらず、それは音楽の流れの中に求められるところの、
際立ったアクセント音とするように作曲家によって特別に指示されたものです。
特に指示のないところで、このような表現は、作為的にはおこなわないほうがいいでしょう。
むしろ、そのフレーズを支配する強弱のレベルの中で、
耳に快いアクセントをつけたり、積極的な消音や、デュナーミクの工夫に専念したほうがいでしょう。
以上のように、レガート、スタッカート、空間あるいは休符のアーティキュレーションについて、
鈴木の著書に沿って、私論を述べてきましたが、
言葉で尽くすことは不可能なことであり、たとえ言葉でわかっても、
良い演奏を聴くとき、何を聞くべきかがわかっていないと道のりは遠いわけです。
世阿弥の「風姿花伝(花伝書)」や、小林秀雄の「モオルアルト」を読んでもしかり。
芸術的な営みにおいて、知識から実践への架け橋は、課題についての瞑想のなかにあり、
その心は、自然界の営みの中にヒントを求めるべきでしょう。
そして実践を、理知的判断でおこなうのではなく、情感的反応でこなわれるレベルを体得するようになれば
音楽のへ壁は、アマチュアでも、おのずと乗り越えられるように思い、私もさらに瞑想を続けたいと思います。
談話室 7.
では、もうひとつ、アーティキュレーションの課題です。曲はご存知、ドヴォルザークのユーモレスク。
もとはピアノ曲ですが、ヴァイオリンで弾かれるとき、歌がもっと生きて聞こえます。
それはボウイングの息遣いによるものですが、それをギターで試みてみましょう。(楽譜をクリック)
この楽譜では、グラチオーソとなっているので、16分音符主体の2/4の2拍子で書かれています。
つまり、ゆっくりではあるけれど、軽やかさが必要で、「アメアメ、フレフレ、、、」とは似て非なるものです。
大きくは4小節で読点がつきますが、1小節、2小節、および3、4小節が3つのフレーズです。
これが、「ドーレ」「ドーレ」「ミーソ」「ラーソ」
と弾かれるとき、
単語のシラブルのグルーピングとしては、それでよいと思いますが、
どうも「アメアメ、フレフレ」や、「おサルのカゴや」と同種の音楽に聞こえてなりません。
ヴァイオリンでは、「ドーレ」 ではなく、
「ドー」「レドー」「レミー」「ソラー」「ソドー」
を、ひとつのボウイングとして弾かれます。
つまり、付点16分音符が、軽いアクセントを持ち、かつ早めに消音されて空間を作ってから、
32分音符と次の付点16分音符が1回の弓の動きでレガートに弾かれるのです。
つまり、付点16分音符は実際の音符の音価より短く消音されて、その分、空白を作ります、
つまり、32分音符は、なめらかな前打音に近い装飾音符のように弾かれるわけです。
「ドーレ」方式だと、「ド」
にアクセントがつきすぎて、コントロールに悩むことになります。
「レドー」方式では、「ド」
につくアクセントは、もっと軽く優しいものになるでしょう。
それは、「ド」
に積極的な消音を、弾く前から、そっと行おうとする気持ちがあるからだと思います。
そして、4小節目の2分音符の「レ」
は、さらに優しい音になるでしょう。
そのためには、ひとつ前の「ミ」
は音価以上に延ばして、レガートに「レ」
に流れ込みます。
この「レ」 の音でも、2泊目後半で、8分休符を入れるように消音して、
次のフレーズの準備をします。
休符の入れ方で注意することは、1、2,、3、と数えて、4を休符にするわけですが、
そのつもりなのに、指の動作が、3から休符をいれてしまうミスをすることがよくあるようです。
鈴木鎮一も、文中で、なぜがこのことを特筆していたことを思い出しました。
さて、アーティキュレーションとしての仕上げは、
全体の強弱については、メゾピアノで始め、2小節目1拍後半をピーク(メゾフォルテ)として、
クレッシェンド、デクレッシェンドをおこないます。
早くピークに持って行って、シンメトリーにデクレッシェンドするのは効果的ではありません。
そして、いつも32分音符と付点16分音符を、ギターのスラーのようにレガートに弾きますが、
各拍の頭を、いくつもの小さい波のうねりのトップにする細やかさも欲しいものです。
それに、少しテンポを落として開始して、クレッシェンドの盛り上がりを、速度を速めて助長し、
デクレッシェンドの収束感にともなって、テンポも落としてゆきます。
そして、最後の2分音符を、上記の消音で、もっとも優しく伸びやかに弾くことが大事です。
できるものなら、この音を発してから、音量を少し膨らませたいくらいです。
残念ながら、ギターでは、ヴィブラートによって、わずかな増幅感を出すしかありません。
そして、次に大事なのは、この音の落ち着いた安心感のある長い音のあとの空白に続いて、
次の新たなフレーズを、また最初のように始めることの、フレーズのつなぎ目の感性です。
気持ちが休んではいけません。休むのは聞き手だけです。
音楽性にすぐれた人は、これらを細かく考えることなく、数回の試行で、無意識にやってのけるでしょう。
我々凡人は、芸事に挑戦するとき、
その方法叙説を求め、頭でサジ加減を見計らいながら、とまどい混乱に陥り、
本来の芸術の姿から遠のいた結果に気づかず悩むのです。
音楽性にすぐれた人は、とにかく聞く立場から見た表現のありかたを主体にイメージして、
もっとも効果的で自然な動的イメージを与える聞き手の受け取り方にだけ集中して演奏する
わけですから、我々も、その基本を忘れてはならないでしょう。
弾く前に、考えてシナリオを作り、それを意識せず、聞き手になって演奏してみて、
イメージと比べて、良いか悪いかを感じることで自己評価して、何百回も試行することでしょうね。
余談室 7.
採譜されたジャズの楽譜を見る機会があった。
ジャズの世界では、あらためて楽譜というのがほとんど意味をなさないと感じる。
必要とするなら、テーマ譜と、コード進行くらいだろうか。
あとはすべてプレーヤーにアドリブ(即興演奏)として委ねられる。
メロディ・ラインだけでなく、コードまでも多様に発展させている。
要は主題と変奏であって、循環する基本コード進行上で、自由に変奏をアドリブする。
ふつうテーマ譜はシンプルに書かれていて、奏者は書かれた音符どおりのリズムでは弾かれない。
そのアドリブ演奏を楽譜にしても、何とも複雑な記譜となり、それを楽器でナゾってみても頭が混乱するだけ。
なによりも、ジャズの演奏は一過性の即興であり、既存の演奏を再現することにもあまり意味がなく、
そこには磨かれたジャズの音楽的センス(温故知新)しかありえない。
本来は、自分の、そのときのフィーリングで即興的にプレイすべきで、
オフビート(4/4では、2,4拍目のアクセント、すなわち拍子の裏打ち)上での
スウィング(ふたつの8分音符を同じ音価で弾かないヨタリ)にあり、
意識して聞けば、あたりまえのようにアクセント、レガート、音の消音が重要な要素になっている。
たとえアマチュアといえども、それらの根本的なジャズのフィーリングについて、
あらためて、とやかく論じられることはないだろう。
ではまた。。。(2004.4.6..)