8.  和声のアーティキュレーション


今回は和音のアーティキュレーションについて考えてみたいと思います。
メロディー・ラインはイメージの輪郭をカラフルに描きますが、それに付けられた和音は、
輪郭の線に陰影をほどこして、立体的に色づけをしながら、
具象的な音楽の表現をさらに色彩豊かにして、強く聞く者の心に波のように打ち寄せます。
思わずゾクッとするような和音の響きや、ショッキングな不協和音の快い衝撃など、
和声が与える心理的効果は、作曲家にとって重要な表現手段です。
長調の曲の中にふと現れる短調の和音は、涙がにじむような穏やかな優しさの感動を表現し、
短調の曲で、感極まったあとに現れる長調の和音は、まるで希望に救われたような、勇気を覚える感動があります。
曲を練習するときは、重要な和声の色彩感、そのエモーションをあらかじめ認識しておくべきでしょう。
つまり、その感動を、練習の積み重ねの中で深くイメージ化して、全体を通した表現の背景としてゆきます。
ただ書かれた音符を弾くのではなく、音の重なりの響きにイメージと感動をまず自分が覚えなくてはなりません
まさしく、それはメロディーの背景になるような色彩や明暗の情緒の立体的な表現の練習ですから。
ところで、ここでいう和音は一度に多くの音を弾く和音以外に和声的進行の重音も意味します。

そして何といっても、ギターは表情豊かな和声楽器なので、テクニックによって、その特性が発揮できます。
しかし、その特性は、安易に和音をバラして弾くことで表現されることが多いのがアマチュアのようです。
確かに、それはギター的な表現ではありますが、リズムを乱す無意味な多様は避けたいものです。
私は、ショパンのワルツ集を自分で編曲して弾こうとして、改めてこの問題を再認識しました。
どうして、ピアノの演奏とギターの演奏では、どうしても音楽の”シマリ”が違うのかと。
結局、ギターでは、和音の貧弱さをカバーするために無意識に、和音をアルペジオにしてしまうからでしょうか。
しかし、和音の貧弱さは、テクニックにあり、また、
音楽の流れのコントラストが、十分に配慮されてないからでもあります。
以前にも触れたコントラストの本質がわかれば、無下に力んで弾くこともないと言えるでしょう。

それと、和音を崩して弾くことで、テンポ、リスムが、明らかに甘くなります。
必要以上に多様することで、それらが不明確となり、作曲家の意図を無視したものにもなりかねません。
ショパンの悲しみは、ぼやけたアルペジオ風和音よりは、シビアに決まる和音の方が良い場合があり、

ギターを聴きなれないクラシック音楽愛好家には、甘い和音は通常受け入れられないことかも知れません。
そのことを気にかけていないと、ギター音楽はギター界でしか通用しないことにもなるでしょう。
しかし実際には、テクニックの未熟な私には、なかなか脱却できないところでもあります。
和音をばらして弾いてしまうとき、それが音楽全体からみて本当に必要かどうか考えるようにしたいものです。
練習課題として、ルネッサンスやバロック前期のゆったりした小品などがで、和音奏法を見直すことも必要でしょう。
(もっとも当時の音楽では、和音をばらさなかったということではありませんが)
そのポイントは、チェンバロを弾くようにひとつの和音を均一な指の力で弾くことで、
その各音のバランスとともに連続和音のつなぎ方(撥弦)には、瞬発的かつ優雅に、かなりの集中力が必要です。
和音の直前の空白は、右指を置いてから和音を弾くのではなく、積極的は消音とすべきでしょう。

プロなどの演奏を聞いていて、和音の美しさに感動することがあります。
その背景には、各音を均一に出す能力(つまり、各指の完全なコントロール)があり、
しかもその音の立ち上がりが気持ちよく、衝撃てきでなく音がよく響き持続することで、
さらに色彩感があり、まるでその和音に命を懸けているように思えることがあります。
またその技術は、ばらして弾いたときも、各音があいまいにならず力強く、その上にまとまっていることです。
ピアノで弾かれる和音にも、指には緊張感を失わないことがわかる小さな音圧があり、
フォルテで弾かれる和音では、裏板が明らかに振動している深みのある強い音圧を感じます。
もちろん和音においても撥弦タイミングが冴えているところにも我々との差を感じます。
アマチュアが、立ち上がりが重たい上にジャランと弾くのとまったく質が違います。
そして、なによりもどの声部でも、メロディを浮き立たせて弾かれることです。
楽譜の和音(重音)の場所は、音楽の立体的組み立てを表現できる大事なところであり、
楽譜を見て、上向と下向きの音符があれば、重奏(アンサンブル)であることも忘れてはなりません
言うなれば、立体感を表現することなしに音楽は成り立たないともいえるでしょう。

楽譜で、メロディが描かれる輪郭とすれば、和声はそれを浮き立たせる配色の指定なので、
和声の配色がもたらす、その音楽の背景は、弾く者の音楽表現の想像力の源となるわけです。
ところが、その個々の絵の具の配分を考えなければならない場合でも、
和音を、メロディに音が重なったもののように、一様な弾き方をして、
奥行きのない演奏をするのもアマチュアのゆえんです。
鈴木が言っているように、和音を伴っても、「メロディを生かし歌う技法」を忘れないようにしたいものです。
和音では、どの横のラインをメインと認識して、それを浮き立たせることでしょう。
ただ和音を含む音符を弾くとき、和音の配色効果により、あたかも自分でその色彩感覚を表現したように錯覚して、
本来の音楽の流れ(メロディーなど)のアーティキュレーションの気配りが見失われることに注意しましょう。

アンサンブルの場合を考えると、自分のパートの音の役割を全体の観点からわからないとヒドイことになります。
自分の音もよく聞いていないなら、他人の音など聞こえないでしょうし、
全体の響きもわからず、自分の音が音楽からはみ出していることにも気づかないでしょう。
若葉色の葉も輪郭を、枝の濃い茶色で塗りつぶしたり、深い緑の影が、ずれて描かれる良くない状態。
花瓶が陰影によって立体的に描かれ、しかも置かれたテーブルに浮き上がるようでなければ。
和声の演奏を考えるにあたっては、一度に弾く和音のほか、アルペジオ(分散和音)とともに、
異なるリズムで同時進行する別の声部(伴奏部や対位旋律)との調和ある立体化が重要なテーマです。
そして、二つの音からなる和音でも、いつもジャランと弱々しく弾いてゴマかさないで、
いつも撥弦タイミングに真剣に取り組まなければなりません。
ギターの独奏はひとりでおこなうアンサンブルです。

ギターでは、わずか右指4本によって、それらすべてを弾きわけなくてはなりません。
でも、ある程度の技術があって、そのことが楽譜を見てわかっていれば、自然とそれはできるものです。
ひとつの音楽の中に、複数のラインの流れを意識できなければなりません。
問題なのは、その和音による立体感を表現しようとしているかどうか、また伏線の流れがわかっているか
しかし、わかっているだけではダメで、そのように描こうとししてできているか、または何が課題かです。
さらに、和音は音のかたまりというよりは、合唱のように複数の音の流れが同時に発せられるものと見るべきで、
それぞれの音は、バロック音楽の対位法のように、必ずしもそれぞれの個別の流れを持っているとは限りませんが、
最低2個の音が同時に鳴れば、そこには色が発生するのです。
ここで言っておきたいことは、もともと単旋律でメロディを音楽的に弾けないなら、
和音付きの曲を演奏しても、立体感のある音楽にはほど遠いかもしれません。
それでなくても、ギターでは、和音が入ることでメロディの歌い方には大きな制約が発生するからです。

私は、音楽表現ための、いろんな要素の調和は、絶対的民主主義(?)だと思います。
それは思想的な言葉のように、何かぶっそうなものを感じますが、私の言わんとするところは、
個々が役割の上で全体を考えて責任を持ち、その存在価値を融合の営みの中に主張するが、
全体の求めるものは、ひとつの理想の形であることで完全に一致している状態です。
だからアンサンブルも、絶対的民主主義だし、独奏でも、各指はその理想を求めて責任を果たさなければなりません。
では具体的に、その基礎練習法として、下記のような練習はいかがでしょう。
右4本の各指は、いつでも主役になれて、他の指は、全体バランスを暗黙のうちに察知して、
ひとつの音楽の流れを作り、その残響を彩ることです。
楽譜を見れば、何を練習するかは、おのずとわかるようにしたいものです。

このアクセントの練習ができてくれば、次に、アクセント音以外の音を八分音符にして消音します。
これは、イエペスの「シャコンヌ」のような練習で、
この目的は、アクセントのある音をメロディとして、より歌うためのものです。
また、右手のバリエーションとして、
p、i、m、a で弾く4つの音から成るコード(CコードとかAmコードとか)を押さえておいて、連続して同じ和音を弾き、
順番に、アクセントをつける指を変えてゆき、和音でありながら、さながらアルペジオに聞こえるように練習します。
そして、これを徐々に早くコントロールできるようにします。

ひとつの例として、タルレガの前奏曲第6番という曲の最後をかざる和音の連続では、低音部に音階があります。
ニ長調でありながら、カデンツとして、主音の「レ」を根音として使わないユニークな例でもあります。
フォルテの和音の奏法で、強くにぎるような弾き方では水平方向の弦の振動で大きな音になりますが、
垂直方向に指を動かすことで、弦の振動は駒を(表面板を)上下に振動させ、裏板まで振動させることができます。
このとき、指は弦に深めに当て、瞬間押し込むようにして、反動ですばやく鋭くつまみ上げるようにします。
和音をばらして弾くときでも、各指に力強い独立性を持たせてバランスよく強くつむぎ出すようにします。
なんだかんだ言っても、結局指のコントロールがなければ表現には至らないところが辛いところ。
おまけに、その曲のイメージの思い入れという表現の源も無いならば、音楽でなく音列でしかなりません。
このタルレガの前奏曲のストーリーは、
おどけた振る舞いで突然はじまり、自分で語るに落ちたような真顔にもどってゆき、
チャーリー・ブラウンのような憂いに陥り、最後は彼の口ぐせ、「Good grief ! (ヤレヤレ)」で終わります。
ついでながら、同じくタルレガの「マリーア」の最後の和音では、「悩ましい苦しみの後のため息」であったり、
「はき捨てるような、チクショー!」の気分であったり、人それぞれの表現になるでしょう。

ところで、和音の表現で気をつけたいことのひとつに「掛留和音」の表現があります。
ハ長調で「レ→ド」とか、「シ→ド」と終止したり、「ラ→ソ」とか「ファ→ミ」と中間終止するような、
ハイドン、モーツァルトやソルの古典期の音楽によく出てくる和音の連結です。
私の知っている一番強烈な掛留和音は、バッハのマタイ受難曲の終曲の最後の響きです。
2時間半にも及ぶキリストのドラマを締めくくるト短調の長い「シ→ド」の沈痛と鎮痛の掛留和音。
とにかく、掛留和音は「呼吸」のような息づいた強弱の表現が必要です。
「強」と言っても必ずしも強い音ではなく、音質量の上でウエイトのある音と、解き放たれた音のコントラストです。
もちろん、そのフレーズの重さ軽さにもよりますが、
2つの連続音が同等の音質量で弾くことはたやすいことですが、音符の自然の流れには反しています。
いろんな音楽の中からそれを聴いて掛留和音の弾き方を研究しましょう。

また、ソルの有名な二重奏の「アンクラージュマン」で、セカンドの冒頭の連続和音が、まるで
太鼓連打のように同じ音質量で弾かれたなら、ファーストは抑揚不可のストレスを感じ興ざめするでしょう。
この場合は、逆にソロで弾けるとしたらどうするだろうと、考えなえればならないのです。
和音はメロディの伴奏であるか、内にメロディを秘めているか、はてまた色彩豊かなリズムの表現なので、
和音演奏においても、やはり今まで述べたアーティキュレーションの自然の原則を忘れてはなりませんね。
たとえば、その和音にアクセントを付ける場合、
メロディーの時のように、その前の音を直前に消音して瞬間的な空間を置くことも大事な手法です。
そして何よりも、単音以上に撥弦タイミングにシビアになり、
かつ和音の音のバランスを自分で確かめることを怠らないことです。
そして、左指の訓練、難しいけれど、力を少なくすばやく複数の指を移動できることでしょう。
(和音の響きが悪いときは、どれかの指が弦をひっぱって音程を狂わせていることにも注意を。)
右指のすばやくシャープな撥弦練習とともに、何十回、何百回も練習して、
自分のイメージするものに近づけて行くしかないですね。
そう、まず自分のイメージありきです。

 



談話室 8.

昔読んだ本の中に、「日本人は、学校の英語の勉強のように音楽を勉強している」というのがありました。
多くの単語を覚え、文法を学ぶことを英語学習の基本と教わり、結局読み書きできても話せない。
やっと最近になって、聞いて話すことからが生きた英語の勉強であると言われるようになったけれど。
またある本では、「ダンスはステップの図解とその順序から教えられ、リズムの体感がなおざりにされている」と。
その本では、まず音楽に合わせて歩くことから始め、そのリズム体験をステップとして整理して教えるべき、とあった。
我々西洋ではない日本に暮らすアマチュアは、
音楽をこれら同様の非音楽的な過程で学ぼうとしている今の自分の中の「音楽のバカの壁」を、
それぞれが乗り越えなくてはならないと思うのです。
それは、アマチュアとプロの音楽を大きく隔て、私の連載の動機である「音楽への一線を越えたい」に他なりません。
まずは、自分の中のその存在と自分との距離に気づき、方法を探るために書き始めたようなものです。

頭で分かっていても、フレージングを無視して,単語を追うように、音符を追いながら弾き続ける。
そして結果として、歌う努力なしに、ただ拍子を弾くことで終わっている。
分かっていても、はじめにイメージを作らず、抑揚をつけるのは後からと思い、そのまま棒引きで弾けた気分になる。
そして自己認識として、思い入れはプロだけがするものと割り切ったする。などなど。。。
また我々アマチュアの抱く問題の本質は、自分で問題がわからない、わかっても方法がわからない、でしょう。
養老孟司氏も、著書の終わり方で「。。。じゃあ、どうすればいいのか」と書いていますが、
イマイチ説明不十分なのが評価のわかれるところでしょう。

結局その原因は自分の中にある初歩的な音楽のバカの壁であって、
たとえれば、「しゃべって表現する」ことが英会話の本質なのに、それを第一義としようとしないことと同じです。
克服するには、まずは深く音楽を聞き、考え、調べ、試みることからの再出発。
その壁が、「ダンスのステップの形にこだわる」ような、本質から離れたやり方と同じだとするなら、
音楽をイメージを想像しながら聞き、演奏では自分のイメージを作り、その表現訓練しなければならない、
という楽器を手にするときの音楽への本来の取り組み方(練習姿勢の見直し)に目覚めるかどうかだと思うのです。


余談室 8.

この年(58才)になって、初めてコンクールの舞台に立ちました。
山陰ギターコンクールのシニアの部です。(2004.5.2.松江)

36年前の大学のクラブの定期演奏会以来のことでした。
課題曲(マリーア)は、指の振るえで音は不安定でしたが、思い入れの表現はそこそこできました。
自由曲(バッハのプレリュード)では、自分の音の響きにいつもと違う戸惑いがあり中断してしまい、再試しましたが、
この事態発生で最後までマイペースを取り戻せませんでした。
やはり、舞台での演奏では、上がるという精神的な抑圧があることが分かっていても、
経験と精神的対策が不十分だったと言えると思います。

しかし、音楽をやる以上は、人前で演奏することを想定して練習すべきで、これは表現芸術として重要なことです。
いかにアマチュア・レベルとは言え、舞台と観客(さらに審査員)との関係は、
思いを伝える演奏者と、少しでも良いイメージを持たせてくれることを望む聴衆との、本来の音楽の場なであり、
音楽の主導権は演奏者にあって、聞くという立場の人に、いつもの個人的練習音楽ではない、
その場で共有の音楽の世界を作り上げなければならないと思います。
とりわけ審査員は、音符がちゃんと弾けたかどうかしか聞いているわけではなく、
レベルの問題はあるとして、その辺りがポイントなのですから。
とにかく、自分の思い入れを育て、細部にわたって表現を磨き、録音で検証しながら、延々と練習をして、
最終段階では聞く人を意識した仕上げの表現に集中し、自信をつけるまでの長い過程がいるようです。
あとは、舞台というエキサイトな環境で火事場のバカちからが、表現力を増幅することに期待して。

なお、私たちはアンサンブルにも出場しましたが優勝はのがしました。
結成して約1年の、ギター再開組み50才台4人で、この舞台は4度目のもので、
ある程度の舞台経験はできたつもりでした。(音楽レベルは伴っていませんが)
アンサンブルの問題としては、舞台での他者の音が聴こえにくいことの対策の必要を感じました。
結局、徹底練習で、音響環境が変わっても、いつものテンポとイメージで弾けるようにすることでしょうね。
まあ、いい経験だし、今後も機会があればチャレンジして行きたいと思ってます。

ではまた。。。(2004.6.5..)

 Back  Next

 

 

 


 

inserted by FC2 system