9.  テンポ・リズムのアーティキュレーション


音楽のテンポとは、その音楽に現れる脈拍や鼓動による律動から生じる音楽の速さで、
旅先の町や山道を歩くときのように、出会う場面の印象や雰囲気で、自然にその流れ方は変化します。
「律動」とは、リズムのことで、辞書によると「規則的な周期運動パターン」などと書かれています。
しかし、リズムを表現することとは、楽譜の音符の示す音の長さ(音価)を、所定のテンポの上で刻むことではなく、
作曲家があるエモーションから感じた、音符を意識しないリズムのパターンを、
不十分な伝達手段の音符という記号群から汲み取って、自分の中に生々しくそれを蘇生して、
自然な音質量の変化の流れの様(さま)として表現することです。
そしてリズムを生きたものにするのは、結果として、個々の音の音質量のバランスが必要でしょう。
その表現行為は、考えすぎたものではなく、考えることを捨て、イメージによる肉感的なものでなくてはなりません。
ともかく、リズムの練習も、はじめに楽譜・音符ありき、でないことを忘れてはなりません。

リズムは、その音楽のテンポを生み出すもので、その発端が作曲者のあるエモーションだからこそ、
それを表現するための、その音楽の望ましいテンポが必ずあるはずです。
「なんだ、そうだったのか」と言うときと、「なんだ、このザマは」と言うときの、「なんだ」には、
エモーション(情感)とテンポ(語勢)において大きな違いがあるでしょう。
だから、たとえ曲の練習といえども、倍近い遅いテンポで演奏すると、音楽表現の面では、
アーティキュレーション(言い回し)が、まったく異なってしまうことに気づかないといけないでしょう。
「なんだ!」という怒った言い方を、ゆっくり言うのは、気迫がちがって、どうもシックリこないように。
つまり、テンポとエモーションは密接な関係があって、別々に考えることは不自然なわけです。

さて、本題にもどって、
テンポは、情緒とそのアーティキュレーションによって、音楽の時間的進行速度は、一定ではなく、
音楽の1拍という時間的単位が、その音楽の情緒経過に影響されて、その進み具合が変動します。
その音楽のドラマ性は、イメージのストーリーによって、自然に変化する音の音質量があってのことです。
つまり移動する物体の運動速度が変化するとき、たとえば摩擦力が速度に影響するかのような、
あるいは相対性理論の時空のひずみのように、要因があって時間経過速度は一定でないわけです。
なお、その曲の基本的テンポは、その音楽の息吹なので、、もし途中でテンポを情緒変動で流動的に変化させても、
元のテンポに戻る必要があり、それを見失ってはなりません。作曲家によって指定された場合を除いて。
ちょうど音楽の息吹は、風のように、起こるべくして起こり、作用・反作用の自然の摂理で収束します。
テンポは、周期の法則性が主体となって音楽の流れを支配したり、それに従うのではなく、
音楽の流れを生むフレーズのエモーションが、リズムのに周期性に変幻自在な変化を与えるので、
それを自然に生き生きと感じさせる音楽マジックの習得が、アーティキュレーションの練習そのものです。
表現への試行は、フレーズやその中のリズムに、イメージを持たなければ機械的になってしまいます。
とくにアマチュアは、音楽を息吹の律動ではなく、音符の音価の長い短いの組み合わせのパターンと思いがちです。
確かにリズムの周期の単位は拍子であり、さらに拍子は、ひとつの周期として2拍子、3拍子などとなります。
でも、拍子を数学的周期と捕らえたり、「強・弱」の物理的周期で認識することは間違いといえるでしょう。

このような音楽認識の弊害となった日本の音楽教育の不幸な例をあげるなら、
「音楽理論書」では、たいがい「音の規則正しい繰り返しを拍子という」と言い切られています。
そして3/4拍子では「強・弱・弱」とか、4/4拍子では、「強・弱・中強・弱」と定義されたりしています。
さらに「弱起」とは、拍子の「弱」から始まる曲、などと上記の原則論による乱暴な定義がされています。
また「リズムとは一定時間内のさまざまな音価(音符の長さ)の組み合わせ」とも書かれています。
多くのアマチュアは、このような物理的な定義に、音楽表現の道を阻まれたきたと言って過言でないと思います。
音楽の壁を目の前にして我々は、一定の法則性を持たねばならない、という考えに至ってしまいます。
まるで、「風はこのように吹かねばならぬ」とでも言うような。
そしてテンポについても、「呼吸は基本的に、このようにしなければならない」というような拘束に、
息苦しい音楽でも、そんな自分の演奏は、これが法則的で自然だ、と無意識に思ってしまうことです。
でも、エモーションを感じる耳は、そんな演奏をヘタだと正しく判断する耳は持っているはずです。
多くの人が、良い音楽を聞く耳を養うことは、聞かせる技術を身に付けることよりも、ずっと容易なことです。
なぜなら聞くことは脳内活動で培われますが、表現技術は心身一体の肉体活動の訓練を必要とするからでしょう。
「心身一体の肉体活動」、なのに、ただ筋肉的訓練にだけこだわると、目的を達しないことは自明の理。
テンポの変化表現には、意図した結果を自然に表現しなければならないという難しい課題がなのです。
(もちろんテンポの変化しない部分でも、基本的な音楽の息吹の律動を決して忘れてはなりません)

結局、音楽演奏を練習することは、
演奏する自分と、よい音楽を聞く自分、とのギャップを埋めることが「音楽表現」の実践的練習です。
つまり、自分が良い聞き手になることが不可欠なのです。練習以前の大事なテーマです。
今の自分の音楽表現が許せないほどに。許せるのはアマチュアの悲しさです。
いうまでもなく、練習とは、単にできない部分を繰り返することだけでなく、
どうすればよいかを音楽を聴いて考え、実際に独習する「what,why,how」の創造的思索が必須です。
いざギターを手にしたときは、たとえ試し弾きであっても、二つの単音やひとつの和音を弾くとき、
息吹の律動としての音楽的表現を心がけたいものです

こんな、どうでもよいようなことろにも、個人の音楽性のバロメーター、あるいは姿勢が現れたりします。
指慣らしや試奏でガンガン弾く人は、おのずとその人の音楽性が見えます。
表現を可能にするものは、自分の感じた、そのときのふとしたエモーションでしょう。いや、それがなければなりません。
つい無造作に弾く習慣は、音楽表現への道の遠回り、あるいは不幸な分かれ道かも知れません。

音楽表現のマジックの習得、そう、それは種のあるマジック(手品)の技法と同じようにも思えます。
人の目と心理を欺いて不条理な因果を自然に見せる「ありえない」マジック。
手品と音楽に共通するのは、ダイナミックに自然に見せ、そして自然に感じさせるところです。
自分の演奏の音楽的でない要因は、どこかに自然の摂理に逆らっているところがあるからで、
撥弦が遅れる、音に深みがない、指先の動作でしかない、連続音に呼吸感がない、など自分には
アマチュアゆえの自然さであるとはいえ、その聞き手の立場になると、表現結果としては自然ではないのです。

それは、歌心、思い入れ、感情の高まりの表出の有無、その音質量の変容がなければ不自然なことです。
歌詞の意味もわからず歌う歌は、その音楽が人に伝わるでしょうか。
だから大事なことは、
テンポについて言えば、時間的に見計らって物理的に操作しても、情感の音質量の変化が伴なわなければ、
聞いていて受け入れがたく、その不自然さにイライラする感覚をおぼえるでしょう。
また、逆にメトロノームどおりに弾くことは、その音楽を共有する両者にとって精神的拷問にも等しいことです。
フォルテやピアノが単にボリューム(音量)の大小でなく、込める気持ちのウエイトの大小であるように、
音質量のありかたが、それに自然に影響されてテンポを支配する因果
だからです。
アナウンサーの読むニュースを聞いていて、ボリュームを増減しても感情表現にはならないように。
さらに、岩か崖から転がり落ちてきて、地響きと砂ぼこりをたてるのは、その衝撃の大きさゆえに自然ですが、
小石がひとつ落ちてきたのに、同じような地響きと砂ぼこりがたつはずがなく、それは自然ではありません。
「自然さ」を演じるとき、その自然の様が自然に感じるまで、「不自然さ」が付きまといます。
プリマドンアの白鳥の羽ばたきは、何を思い、どう工夫して、何を練習をしたかを偲ばなければなりません。

アマチュアの演奏(練習)で、テンポの変化がないのは、
リズムあるいは拍子にだけ意識が集中して、指先だけの、思い入れの無い音質量で弾くからで、
たとえ間を取ろうとしても、かえって不自然さな結果になります。
つまり物理的に間を取ることがアーティキュレーションになるのではなく、
作り出した音質量の変化が自然な間を導き出すことなのです。
では、その音質量はどうして実現するかは、
曲に対する自分のイメージを確立して、その表現を、いつも考えるというお膳立てがあってこそなのです。
自分の演奏を聴衆の立場で聞いて、体で自分のイメージでテンポを取ってみれば問題点が見えるでしょう。

音楽マジックの一例として、「間」については、演奏の休息ではなく、余韻あるいは予兆を演奏することです。
フレーズの継ぎ目で間をとったり、個々の音を消音したときの絶妙の時間的空間は、まさしく
このような、音質量とそれによるテンポが自然な現象に叶っているかどうかです。
また徐々にテンポを上げたり、落としたりするフレーズも、アクセルとブレーキの加減ではなく、
心の息使いが、おのずと音に現れ、これまたおのずと、そうなってしまうようでなくてはなりません。
アマチュアの演奏を聞くと、よくそんな問題が気になります。
「その音質量で、なぜ、そんなに間を置くの?間が持たないよ」
「フレーズに、が・の・に・を、がはっきりしないから説得力に欠けるね」
「そこは、しっかりメリハリをつけて、もっと間を取って、こっちにも息を整えさせてほしい」
「そこの盛り上がり方は、力強さじゃなく、どんどん重たく疲れた感じになっているよ」
「その弱起のフレーズの入り方には決断力、あるいは呼吸感がないなあ」
「あれ?その段落で音楽をやめたの?つなぎのリズム連携はどこへ行ったの?」
「おっと、そのフレーズの最終小節は何拍目になるの」とか。
このようにならないためには、
結局、話し言葉の中に、生きた間のありかたを学ばないといけないでしょう。
音質量とテンポのゆらぎの自然な関係。しかもいろんな表情・情感のパターンで。
「そうでしょう?。。。だから言ったように」
「でしょう?。でしょう?。。。ほら、やっぱりそうでしょう?」
「そう?。。。。でもね。。それは。。。」
「楽しかったなあ!。。。。。ところで君は?」
このように、しゃべり言葉の間には、気持ちを自然に表すために、意図的でないさまざまなあパターンがあります。
そう、このように音楽演奏は、やっぱりドラマのセリフになぞらえるのが、いちばん近いと思います。

余談ですが、
バロック期には、1拍のふたつの8分音符の音価を不均等に弾く「イネガル奏法」というのがありました。
私の持論(?)では、それは黄金分割になるのがいいのではないかと思うのです。
黄金分割は人が認識する自然の営みの美や、人が創造するアートの中に内在しているようです。
そのリズムは、3連音符の2:1や、付点8分音符と16分音符の3:1ではなく、
黄金分割に当てはめると、1拍を5連音符に換算して、おおよそ3:2になるような感じでしょう。
多分、そのほうが聞き手も、そのほうが心を気持ちよく揺さぶられ、生きた自然に聴こえるでしょう。
これは、ジャズのように、連続する8分音符などでのスウィングと似たところがあると思います。
ところで、ショパンなどで出てくる、7連音符、11連音符などで、楽譜どおりに均等割りすることが無意味なのは、
その音の連なりに音質量の流動的な浮き沈みがあるからで、作曲家も均等割りを望んではいないはずです。
もっと言うなら、3連音符と2連音符の同時進行でも、均等割りだけではそのリズムは生きません。
もたれかかるような3連音符の音質量と、それを冷静にしっかり支える控えめな2連音符の対比に妙があります。
蛇足ながら黄金分割は、それを意識した創作活動よりも、
結果として「造形の中に、まさしくその美しさがあった」とでも言うような無意識さが必要です。
ちょうど巻貝のスパイラルが黄金分割比を内在する美しさのように。

音色、フレーズのディナーミック(強弱)にせよ、テンポの揺れ(アゴーギク)にせよ、
聞く人に予想させ、それを裏切らない、あるいはその予想を上回る表現のとき、
人の期待は、その劇的な音楽の流れに、ジェット・コースターのようなゾクッとする快感を感じるでしょう。
しかし、すべての音楽において、そのようなテンポ・マジックが必須というわけではありません。
先日たまたま、往年のハイフェッツが弾く、
バッハの無伴奏パルティータ第3番のプレリュードをビデオで見る機会があったが、
そこでは終始一貫していて、変に間を持たせるような演奏ではなく、息もつかせないドライブ感で、
粒のそろった真珠を編みこんだかのようなタペストリーが走馬灯のように流れる美しさがあった。
テンポのゆれを表現するのではなく、インテンポで、ボウイングによる音質量のバランスのマジックがあるのみ。
一般的には、フレーズの始まり(特に弱起)では少し遅めに入り、フレーズの継ぎ目に向かっては遅くしますが、
フレーズの切れ目でテンポを変化させたくないなら、音質量でそれを表現しなければならないでしょう。

さて、拍子について言えば、舞曲では、古典でもモダンでも、アクセントによって、その舞曲を弾きわけないと、
その舞曲をよく知っている人には陳腐なものに聞こえます。
たとえば、一般的なワルツとメヌエットでは、同じ3拍子でもニュアンスが異なります。
それと、3拍子では、おおよそ2小節で1サイクルと考えるのが自然な場合が多いものです。
ワルツでは、比較的1拍目にアクセントがあり、2泊目は少し詰まった感じで、3泊目は反動的に伸びやかで、
全体にステップの歩幅の広い動きの流れるような軽さの雰囲気があります。
ウインナ・ワルツでは、ベースが刻むワルツの2泊目は、1拍目が終わらないうちに前倒しで弾かれますが、
主旋律の2泊目は、それよりも正常に近いリズムで、ベースに促されるように出るところにマジックがあります。
一方メヌエットは、同様に1拍目に少しアクセントがあり、2、3泊目は、「スイスイ」と水の上を歩くような優雅な動きで、
ワルツよりは歩幅が狭い、ちょっとおっとりしたイメージがあり、2,3泊目は明確でしっかりした足どりが必要です。
また、マズルカという3拍子では、2泊目にアクセントがあり、2泊目で踏ん張って3拍目に流れるイメージで、
1拍目と2泊目には、いくぶん気持ちの区切りが必要となります。
たとえばタルレガの「ト調のマズルカ」は、ゆっくりとしたマズルカで、テンポの揺らぎがなければ、
つまらない音楽になってしまうと思います。(私のは、たいして手本にはなりませんが)
ただ、セゴヴィアの、蜃気楼のひずみような音楽の、その表現結果だけを真似すべきではないと思います。

音楽の練習とは、思い入れを生かすために、あらゆる音楽的要素によって、
フレーズAとBの対比変化や、ひとつのフレーズ内のa点からb点までの流動的変化をつけることと、
音質量とコントロールのマジック性を持たせることです。しかも自然さを持って。
その結果、テンポやリズムの変化が結果的についてくるでしょう。
「自然さ」とは、聞き手が感じることなので、ひとりよがりではいけません。
それは、多くの良い音楽を聴いて、その感動的イメージをひとつひとつ覚えることでしょう。
自分の聞く、音楽の聞き所の質も向上し、より次元の高いものが分かるようになって、
その覚えたイメージのストックが、いつかあるとき自分のイメージによみがえるはずです。

音楽のすべては、相手が心地よく感じるためにマジックを演じることであって、たとえれば、ドライブで
カーブ(テンポの変化する場所)の道を、速くも無く遅くもなく、同乗者(聴衆)に不安感を与えず、
快適なドライブを提供することに似ているように思います。
自動車のスピードが、カーブの読み(思い入れ)によって、おのずとコントロールされ、
まるでカーブの道を上空から全体を見てとったかのような、なめらかな走り。
そして言うなれば、ドライバーのナビゲーターは、古今の優れた演奏家でしょう。

どの曲にも適切なテンポがあり、そのテンポのうちに心地よいリズムの揺らぎがあります。
その揺らぎは、人が自然と感じるものでありたいと思います。
結論的に、音楽マジックの種は、ただ自然を演じることに尽きるでしょう。
そして、音楽を自らの手で、人に心地よく感じてもらうために苦心して表現を試行する心の様は、
音楽が「愛」と同一視されるゆえんでもあります。
ヨーロッパの人たちとメールで音楽を語るとき、彼らの「音楽とは愛である」という観点に驚かされます。

ただし、学び方の未熟な視野の狭い自己愛ではなく、です。






談話室 9.


私は、アンコールというパソコン楽譜ソフトを永く使っていて、ほとんどマウスだけで編曲などの譜面を書いています。
できあがった楽譜は、ソフトのMIDI機能で聞くことができて、たいへん重宝しています。
そして、ホームページに楽譜をアップするときは、そのMIDI音を参考につけています。
ほんとうは自分で演奏できればいいんですが、それがナカナカ難しくって。。。
最近は、機械的なMIDI音では、あまりにも音楽的でないので、その可能な機能の範囲で表現を付加しています。
小節単位で、テンポを変化させたり、クレッシェンド、デクレッシェンドをつける、あるいは
単音でも和音でも、音符単位で音量(ヴェロシティ)に変化をもたせる、さらに
個々の音符の演奏する長さ(音価)を%単位で短くしたり。不十分な機能のできる範囲で。
ただ、途中の1音だけテヌートすること(音価を100%以上にすること)ができないのがこのソフトの難点ですが。
とにかく、すべてデジタルな数値設定ですが、少しは音楽に近づけるようになり、
この作業をすることで、音楽表現の一端を、デジタル的にではあるけれど、バランスを体得することができるのです。
そして、どの曲も、フレーズ単位で見てゆくと、一定のテンポでは不自然だということに気づきます。
特にフレーズの切れ目の表現では、一旦遅くして、また元のテンポにもどる設定が不可欠です。
それはフレーズ内の1小節のなかでもテンポの変化が必要な場合がかなりあります。
できあがったものを、メトロノーム表示して全曲MIDI演奏させてみると、画面の速度表示は頻繁に上下します。
また、和音や声部の表現で、並行して鳴る音の音量が同じであるとまったく立体感がない状態になります。
このように、所詮はデジタルな操作ですが、アーティキュレーションを機械的に試みることもできるわけです。
本格的にMIDI製作をやれば、自分の思うバーチャルな演奏も、ある程度可能でしょうが、結局は
アニメーション製作のような世界でしょうね。
 

余談室 9.


自分の演奏を分析する手法として、近年、私は次のようなことをしています。
サンヨーのmp3ステレオ・ヴォイスレコーダーで録音して、PCにコピーし、
ソフト(Sound it !)で、その波形を画面に出します。
そして再生して聞きながら、音量、消音、リズム、特にテンポ変化(間など)を視覚的に目で追います。
すると、テンポの乱れや、思い通りでないところなどの問題点が目に見えてきます。
音質量の不安定なところも波形に現れてきます。(音量、余韻の長さ、消音など)
つまり、演奏時の思い入れと、思い描いたアーティキュレーションのギャップを批判の耳で聞くわけです。
そこで弾いているときの気分で自己陶酔して聞いては、まったく意味がありません。
不満なところでは、波形の部分的カット・アンドペーストで編集してみて、どれくらいの変更がよいか試行します。
主に部分的テンポのニュアンスを調整するので、音の流れそのものは不自然になりますが、
そのテンポに合わせて弾いてみて、弾くときと聞くときのギャップ(音楽マジック)を勉強するのです。
また気に入ったプロの演奏を取り込んでみて、聞きながらその波形を見るのもおもしろいです。
分析のために、テンポが早すぎるときは、ソフトの機能で、音程を変えずにテンポを落とすこともできます。
これは現実には不自然な音楽になりますが、演奏家の思い入れ、息吹の一端が視覚的にわかります。
まず、アマチュアは、拍子を弾いているか、フレーズを弾いているかの音楽の壁の自己チェックは必要でしょう。
たとえば、タルレガのラグリマなど弾いてみて。。。


ではまた。。。(2004.8.4.)

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